←津波は赤線まで
 |東日本大震災阪神・淡路大震災防災システム研究所現地調査写真レポート
 
東日本大震災から10年・復興と課題/現地写真レポート(文・写真:山村武彦)
  
東日本大震災から10年、震災復興住宅・地盤のかさ上げ・高台宅地整備・堤防・道路等のハード面の復興はかなり進んでいる
一方で従来のコミュニティがリセットされた上、高台移転、復興住宅など、住まいの分散とコロナ禍も加わり人心の復興は道半ば
さらに震災前からの地域課題(人口流失、高齢化、過疎化等)が震災により一層深刻化を増しているように思われる
(2020年12月、地元企業などの要請を受け震災遺構などを含め主な被災地の復興状況を見て回った)

震災10年目の岩手県宮古市田老地区 震災直後の画像はこちら
東日本大震災発生2年前(2009年)の宮古市田老地区・津波到達標識(明治三陸地震15mと昭和三陸地震10m)と筆者

東日本大震災直後(2011年3月)/津波到達標識の左側の建物は漁協の製氷貯氷施設(↑)
東日本大震災から10年(2020年12月)/下の画像(↓)

東日本大震災から10年、改装された斜面と津波到達標識/宮古市田老町
田老町は過去繰り返し津波に襲われてきた地域で、田老という名から「津波太郎」の異名もあった
1896年6月の明治三陸地震津波では15mの津波(死者・行方不明1867人)
1933年3月の昭和三陸津波では10mの津波(死者・行方不明911人)
2011年3月の東日本大震災では17.3mの津波(死者・行方不明者181人)に襲われた

建て替えられた製氷貯氷施設にも津波到達表示(黄色のマーク)
筆者身長175cと比較しても、17.3メートルという田老を襲った津波高の恐ろしさがわかる

震災遺構に指定され保存が決まった「たろう観光ホテル」/岩手県宮古市田老地区
震災当日の状況
 たろう観光ホテルは1986年に竣工した鉄骨6階建てホテル。田老の二つの防潮堤の間に位置している。2011年3月11日の東日本大震災で17mを超える津波に襲われ4階まで浸水。ホテルの周囲には民家や漁師小屋などがあったがすべて流された。震災当日は幸い宿泊客はおらず従業員は松本勇毅社長の指示で6階に避難して犠牲者はゼロだった。2014年3月、宮古市はホテル側から土地を買い取り建物の無償譲渡を受けた。復興庁は当該施設を震災遺構として国費で支援することを発表、保存に必要な工事費2億1千万円を負担することとしている。現在予約すれば防災ガイドの説明を受けることができる。たろう観光ホテルは高台(三王岩付近)に移転され高級ホテル「渚亭たろう庵」として営業を再開している。

田老の二重防潮堤の間にあった「たろう観光ホテル」(中央右)
後から造られた手前の堤防は破壊されてしまった

万里の長城といわれた田老の防潮堤
 村を全滅させた1611年の慶長三陸地震津波から285年後、また田老は巨大地地震津波に襲われる。1896年19時32分、岩手県閉伊郡釜石町(現釜石市)の東方沖約200㎞の三陸沖を震源とするマグニチュード8.2~8.5の巨大地震が発生する。大揺れの後押し寄せた15mの津波で田老村(現 宮古市田老地区)の345戸は一軒残らず流され、人口2,248人の83%にあたる1,867人が死者・行方不明となった。生存者は出漁中の漁民や山仕事などをしていた者たちだけであった。さらにその37年後の1933年3月3日2時30分、明治三陸地震とほぼ同じ震源域でマグニチュード8.1の地震が発生し、田老地区には約10mの津波が押し寄せ、田老村の559戸中500戸が流失し、911人の死者・行方不明者を出した。
 繰り返し襲う大津波に対処するため、田老村(後に田老町)に突き付けられた復興の選択肢は明治三陸地震津波の浸水線以上への高所移転だった。しかし、高所に全村移転する敷地確保は困難であり、漁業を生業とする多くの住民は高台移転では業務が成り立たないという意見が多かった。そこで当時の関口松太郎村長や村当局が考え出した復興案は高所移転ではなく、防潮堤(防浪堤と呼ばれていた)の建設と現地復旧であった。費用は大蔵省からの「被災地高所移転への宅地造成貸付資金を借入することになった。津波災害の翌年1934年に着工するが、日中戦争拡大に伴い賃金や資機材高騰・枯渇で工事は中断。戦後、関係省庁に陳情を繰り返し1954年に14年ぶりに工事を再開。そして、1958年に24年かかった工事は完工する。全長1350m、基底部の最大幅25m、地上高7.7m、海面高さ10mの大防潮堤(防浪堤)であった。
 1960年にチリ地震津波が押し寄せたが、その時の津波高は3.5mだったため防潮堤(防浪堤)には達しなかった。しかし、翌日「堤防が津波を防ぎ田老地区の被害は軽微にとどまった」と報道されたため、一気に防潮堤への関心が高まり国内はおろか海外からも視察団がやってくることになる。そして、チリ地震で被害があった地域を中心に高潮対策としての堤防が造られていく。

防浪堤の使命
 津波は湾の奥に向かって収斂されてくるため、湾の奥ほど高く津波のエネルギーも集約され破壊力が強くなる。それを防ぐために当時内務省の防浪堤設計思想は、左図の①(青線)のように、湾から押し寄せる津波に対しV字の形状の防浪堤で津波のエネルギーを左右に分散させ両側にある河川を遡上させることによって津波の破壊力を極力削く計算であった。しかし、1960年のチリ地震津波で防潮堤礼賛の風潮が高まり、②(赤色)の高潮堤防が1966年に増設された。結果としてX字型の防潮堤となった。②の防潮堤は湾の奥に向かってくる津波をさらに中心部に集約させてしまうことになった。
 当初の防災思想は、大津波に対抗し津波を屈服させる対策ではなく、少しでも被害を少なくするための減災を目的としていた。この地域では明治三陸地震津波で15mの津波を経験していたため、海抜10mの堤防で大津波を撃退することはできないことは最初から織り込み済みだった。そのため田老の防浪堤は津波撃退ではなく、津波のエネルギーを弱め、少しでも住人が高台に避難する時間を稼ぐことを目的としていたのである。地震後の大津波に備え、どこからでも短時間に高台に避難できるように各所に階段を作った。当時はまだ車が少ない時代ではあったが、道路を碁盤の目のように縦横につくり、交差点は走ってきた人がスピードを緩めずに曲がれるようにと隅切りまでしてあった。東日本大震災で17.3mもの津波に襲われながらも、多くの住民が高台に通じる避難階段を駆け上って助かっている。結果として、明治三陸地震津波(15m・死者1,867人)、昭和三陸地震津波(10m・死者911人)よりも少ない犠牲者(181人)であった。東日本大震災では後から造られた防潮堤②の破線部分が損壊したが、当初造られた①の防潮堤はびくともしなかった(下の写真)。そのため、第二波が堤防を超えるまで市民が避難する時間を稼ぐことができた。また、堤防が壊れなかったことにより、いっぺんに津波が引かず流された人も周囲の人に助けられたという。①の田老の防浪堤は、津波の衝撃を和らげ、住民が逃げる時間を稼ぐという目的を見事に果たしたのではなかろうか。一方で田老堤防の目的などを知らない人もいて、堤防があるから安心と逃げ遅れた人もいたという。この田老の防浪堤が教えてくれたのは「どんなに高い堤防を造っても、時が経てば劣化するしそれを壊し乗り越える大津波はきっと来る。堤防というハードだけに頼らず、ひとり一人が心の堤防を高くすることが大切」ということである。
堤防が持ちこたえたことによって多くの命が助かった、奥に見えるのは後から造られた堤防(震災直後に撮影)

従来の防潮堤の海側に、現在高さ14.7m、総延長距離1.2㎞の新防潮堤を建設中
防潮堤を跨ぐ道路も工事中

 漁協事務所と魚市場

震災から1週間後、防潮堤から撮影した田老地区の惨状(↑)・奥の白い建物が田老総合事務所(旧町役場)
震災から10年目に防潮堤から撮影した田老地区(↓)
高台に移転された住宅街(上の写真の右奥)
災害公営住宅が完成し、新たに造成した高台2地区で約45ha、約450戸分の宅地が整備され住宅が建設されている(前の写真右奥)
復興の見えない壁
 三陸鉄道リアス線が開通し破壊された田老駅も再建され、さらに中心部に近いところに新田老駅も新設された。津波で1,691棟が被災した市街地だった浸水区域の一部は住宅禁止区域に指定されていて空き地が目立つ。今、田老は流失が免れた平地の住宅街、高台整備新興住宅街、従来からの高台住宅、復興公営住宅と4分割され、被災・非被災・自力再建持ち家・公営住宅住・借家住まいなど、被災と生活再建状況によって住民同士の見えない壁を感じる。震災後、永年培った街並みやコミュニティの多くが消滅。田老を去る人も多く、震災前よりも人口流失と高齢化が加速している。震災前(2011年)の田老の人口は4,462人だったが、2019年には32%減の約3,000人。10年経て、一見町は復興が進んだように見えるが、住民の心と人の復興はまだ遠い。
田老総合事務所(旧田老町役場)/田老町時代(2003年)に津防災都市宣言をしている
令和2年5月18日、新田老駅と総合事務所が併設・移転となった
新田老駅/三陸鉄道リアス線

震災直後の田老野球場(↑)
震災10年目の田老野球場(↓)楽天球団の支援で以前の場所から少し移転して再建された


震災10年目の岩手県陸前高田市 震災直後の画像はこちら
奇跡の一本松(2020年12月撮影)
勇気づけた一本松
 震災前、高田の松原公園内には約7万本の松があって、防潮林の役割を果たしてきた。しかし、2011年3月11日の東日本大震災で10mを超える津波でほとんどの松がなぎ倒されたがこの1本だけが残り奇跡の一本松、ど根性松と呼ばれ被災者を勇気づけた。震災直後は元気だった奇跡の一本松、しかし松の周囲は大地震によって地盤沈下が進み、かつ松の根元は海水が沁み込んで塩分過多状態になったため、松の生育状態が悪化、新葉が出ず褐色化が済んだため、5月20日には根本に活性剤を散布、6月には傷ついた幹を保護するためこも巻きが実施された。そして一時は新葉も見られたが回復の兆しは弱く、10月の調査では海水で値が腐っており再生不可能と診断された。その結果、接ぎ木を育てるなど苗木を移す計画が検討されたが、2012年7月には一度切断し内部に防腐処理を施しつつ金属製の心棒を通した形で保存することが発表された。9月12日に松が伐採され工場で防腐処理を施し復元工事が行われ2013年7月に完成式典が行われた。復元事業費約1億5000万円は陸前高田市による募金運動によって賄われた。
ハードは進んだが
 一本松の奥に見える愛宕山(標高約120m)を切り崩し、壊滅的被害を受けた高田地区と今泉地区の高台造成やかさ上げ地業の土砂を供給した。切り崩した高台には、防災集団移転事業等を活用し今泉地区等の住宅地が整備され住宅が建設されている。盛土、切土の総量は東京ドーム9個分。2地区で約298ヘクタールの切り崩しとかさ上げなどで、事業費は約1,500億円を超えた。10年前、最大約15mの巨大津波に襲われた高田地区は市役所などの一部施設の最上部だけ残して町は水没し多数の犠牲者を出した。死者・行方不明者は1,714人に上った。
 陸前高田市が目指したのはコンパクトなまちづくりである。かさ上げ高さは高田市街地で最大12.3m、約87ヘクタールのかさ上げ地には商業施設「アバッセたかた」が2017年に開業し、市民文化会館等の公共施設も次々に復旧した。飲食店や菓子店など約100の店舗や事業所がすでに営業を始めている。しかし、巨大な土木工事は町の復興までに長い時間を要した。高台の仮設住宅などで8年間暮らし、かさ上げされた宅地に家を新築したTさん(75)は、長期化する工事の完了を待てず隣近所の住民たちはバラバラに家を再建した。空き地の合間に約50戸の家が点在している。今はまだ自治会も近くに友人もいない。リセットされたまま放置されバラバラになったコミュニティの再建には長い道のりが必要。Tさんは高齢化が進んでいて、離れた市外の息子さんなどの家で暮らしている人はもう戻ってこないあまりにも長い時間が人と人の絆や町のぬくもりを失わせてしまったと嘆いていた。震災前(2010年)の陸前高田市の人口は23,30人だったが、2020年には21.9%減の18443人になっている。

希望の懸け橋と奇跡の一本松(写真は2014年に撮影したもの)
総延長3㎞の「夢の懸け橋」
 陸前高田市・市街地かさ上げのため、愛宕山を切り崩した土砂を大量に運搬する必要があった。そこで設置されたのが土砂搬送用のベルトコンベヤーである。総延長距離約3㎞、総工費120億円かけて建設された。奇跡の一本松と並んでこのベルトコンベヤーは復興のシンボルといわれていて、市内の小学生らによって「夢の懸け橋」と名付けられた。2014年3月末から稼働し2015年9月には役目を終えた。約1年半で運んだ土砂は500万㎥、10トントラックを使った場合約9年かかる運搬業務を約1年半に短縮できたという。2016年秋には解体されている。

左側高台の鉄筋コンクリート造りの建物は災害復興住宅

陸前高田市の震災遺構の配置図

震災遺構・下宿定住促進住宅(2棟のうち1棟だけ残すことに)/4階まで津波が来てベランダの覆いが5階だけ残った

震災遺構・旧陸前高田ユースホステル(奇跡の一本松の海側に位置し津波の衝撃を防いだといわれる)
奇跡の一本松と同様に高田の松原公園内にあったが震災数か月前から無期限休館中だったため人的被害はなかった

震災遺構・陸前高田市立気仙中学校 旧校舎/津波は屋上の上(赤い線)まできた
校長先生の判断で犠牲者ゼロ
 岩手県内で最大の犠牲者数(1,771人)を出し、浸水域人口に占める犠牲者の割合が東日本大震災・被災地で最も高い(10.64%)陸前高田市だが、市立小中学校での犠牲者はゼロであった。気仙川河口部に位置し、校舎が津波によって水没した気仙小学校(児童数94人)・気仙中学校(生徒数93人)をはじめ、市内の小中学校の児童・生徒のうち、学校の管理下にあり教職員と共に避難行動を取った児童・生徒からは犠牲者が一人も出なかった。犠牲が出なかった理由として、教職員の臨機応変な対応や地域の住民の助言などから、決められた避難所に留まらず、さらに、安全な高台に避難所を移していたこ とが考えられる。学校の管理下になかった小中学校の児童生徒での犠牲は19名、そのうち3名は体調が悪く欠席して自宅にいて犠牲になった。残り16名は保護者が学校に車で迎えに来て、途中交通渋滞に巻き込まれて親子で亡くなっている。災害時の引き取り協定は根本的に見直す必要がある。
 気仙中学校の場合、地震時のマニュアルでは「生徒を校庭に集めて点呼を取る」事になっていた。しかし、当時の女性校長先生は地震の揺れの大きさから判断して大津波襲来は避けられない。となると1刻を争う、しかし「河口のすぐそばにあるグランドへの集合は危ないのでは」と考え、「点呼は高台に避難してからでも遅くない」と判断して点呼を取らずただちに生徒たちを高台に避難させた。それで終わらず校長先生はさらに高いところへ再避難を指示し難を逃れた。もし、点呼を取っていたら逃げ遅れたものと思われる。また、定められた高台の避難所も浸水しているのでマニュアル通りに行動していたら多くの犠牲者を出した可能性がある。この地方には古くからの言い伝えで「津波は二度逃げ」という言葉がある。いったん避難した場所が安全とは限らないから、そこで安心せず念のためさらにもう一回高所に避難せよという教えである。平時はマニュアル通りに行動しないと混乱するが、非常時はマニュアルにとらわれず臨機応変の対応が必要であることを、この校長先生は身をもって示してくれた。

震災遺構・タピック45/旧道の駅 高田松原

「新 道の駅高田松原」と「高田松原津波復興祈念公園」の(外観)

再建された道の駅高田の松原(内部)

高田の松原津波復興祈念公園(内部)

気仙川に架かる防潮水門
★県下最大規模の水門
 秋になると気仙川にはサケが遡上し、春になると稚魚が海に向かう。しかし、地震が発生すれば津波も遡上する。普段は開放されていて高潮や津波が襲ってきた時に流域の安全を守るために設置された水門である。左右岸延長211 m、高さ30.6mの堰柱(せきちゅう)6基の5径間構造。それぞれの堰柱の間には、『カーテンウォール』と呼ばれる海面高12.5mあるコンクリート製の壁と、鋼製の『ゲート』が設置されている。津波の時はゲートを下げ、カーテンウォールとゲートで川への津波の侵入を防ぐ仕組み。それぞれの堰柱の上には操作室があるが、発災時の大津波警報などに反応して自動的にゲートを閉鎖する。

民間震災遺構「米沢商会ビル」
物言わぬ語り部
 BRT陸前高田駅近くにある包装梱包資器材を販売する「米沢商会ビル」がある。一帯は東日本大震災の大津波でほとんどの建物が流された中で鉄筋コンクリート3階建ての米沢商会ビルがぽつんと残っていた。津波で窓は抜け、壁や天井も破損したがビルの安全性には問題はないと判定された。ビル所有者の米沢祐一さん(55)震災当日ビル内に残っていたが、すぐに地上14mの屋上に避難して九死に一生を得た。しかし、一緒に働いていた両親と弟は避難先で津波にのまれて亡くなった。米沢さんは自らの苦い体験を教訓にするために被災したビルをそのままにしてきた。
 翌年から被災した建物は次々と解体されていった。早い段階で解体すれば公費でできるが、後で解体しようとすれば数百万円の費用は自己負担になる。奥さんに相談すると「祐一さんはどうしたいの」と訊かれた。震災の記憶や経験を伝えたいト思いがあった。残したいけどと迷う祐一さんに奥さんは「解体費用は2人で働けば何とかなるけど、このビルを壊してしまえばもう二度とこのビルと同じものは建てられない:と言ってくれた。かつての町の地面の高さがそのまま残る同ビルとその一帯は震災の証言者。米沢さんは自費でビルを震災遺構として残すことを決断。同ビルは企業や抱く画の研修などで見学依頼があると、東日本大震災と大津波の生々しい体験談を米沢さん自ら話してくれる。そして、一番の語り部は物言わぬこのビルだと米沢さんは言う。修繕費や維持費などの費用はすべて自己負担になるが、l後世に教訓を残す決断をした米沢さんに心からの敬意を表したい。

震災直後の陸前高田市役所
  かさ上げされた地盤に建設中の陸前高田市役所(左奥)手前の建物は市営住宅
2021年のお盆までに犠牲になった職員111人の慰霊碑も敷地内に建立される予定

震災直後の陸前高田市民会館

新装なった陸前高田市民文化会館

震災直後のスーパーマーケットマイヤ(MIYA)/客や従業員たちは3階建ての屋上に避難して助かった
現在のマイヤ(右側)


震災10年目の宮城県本吉郡南三陸町 震災直後の画像はこちら
志津川湾10年目の朝(南三陸ホテル観洋客室 窓から撮影)

2020年10月12日に全体開園された南三陸町震災復興祈念公園


現在の南三陸町防災対策庁舎(南三陸町震災復興祈念公園)

上の写真は震災前(2009年)に撮影した南三陸町防災対策庁舎
下の写真は震災直後(2011年)に撮影した南三陸町防災対策庁舎
震災直後の南三陸町防災対策庁舎

防災対策庁舎を世界遺産に
 三陸沖から常磐沖にかけては世界三大漁場に数えられ、沿岸は潤いその恵みを享受してきた。2011年3月11日午後2時46分、その優良漁場付近を震源とするM9.0の超巨大地震が発生。宮城県本吉郡南三陸町は大揺れの後、大津波に襲われ、死者・行方不明者831人、建物の全半壊7142棟という甚大被害を出した。
 南三陸町の防災対策本部が設置されたのは防災対策庁舎の2階。直後気象庁の大津波警報・予想津波高は7mだったが、その後10mに変わった。宮城県の第三次地震被害想定の津波想定は6.7mとなっていて、避難場所や対策はそれを基準に準備されていた。それが10mと聞いて皆愕然とする。防災対策庁舎には町職員など54人がいて、全員が地上12mの防災対策庁舎屋上に避難する。
 しかし、しばらくして押し寄せてきた津波が屋上を覆ってしまう。その時の様子が町職員によって撮影された写真(左図)によって明らかになった。それを見るとひざまで浸水した中で必死に円陣を組んでいる姿が写っていた。この写真は震災1年目にNHKが放送しネット上に流されていたもの。県の被害想定では最大津波は6.7mだったはずなのにすでに12mの屋上に濁流が流れている。これほどの大津波であれば、自宅や家族も流されたかもしれない。妻や子など家族を思いギリギリまで安否を案じていたはずである。しかし、もう逃げ場はない、さらなる津波が押し寄せてくる可能性がある。しかし、彼らは泣き叫ぶでもなく、取り乱すでもなく、次の大波に備え決然と円陣を組んでいた。女性、若者、住民たちを円陣の内側に囲い込み、外側を管理職員が固めている。そこにいる職員たちは皆、大津波警報の中、住民を守るために直前まで防潮扉を閉鎖したり住民の避難を呼びかけていた人たちである。
 きっと守り抜く、若者や住民を死なせてなるものか、家族を残して死んでたまるか。生死の瀬戸際にありながら彼らは最後まで人間としての尊厳を失っていない。彼らこそ真の勇者たちではなかろうか。その直後に15.5mの大津波が襲い流されて裡舞う。屋上に避難した54人のうち、助かったのは11人だけである。被害想定通り、対策をしてきたのに、被害想定の2倍を超える津波が襲来した。何かが間違っている。この悲劇を繰り返してはいけない、風化させてはいけない。筆者は奇跡的に生き残った町長以下10人にインタビューしてこの本を書き上げた。南三陸町の防災対策庁舎は不条理な東日本大震災のシンボルでもある。ご一読いただければ幸甚である。
  震災後、新庁舎は内陸の高台に新築され、旧庁舎跡地周辺の平地はかさ上げされたものの、いくつかの商店などを除き住宅は高台に移転されている。暮らしやす海に面した景観の良い平地は、復興祈念公園や観光客向けのさんさん市場などだけで住宅規制区域となっている。結果としてここでも長年培ったコミュニティがリセットされてしまった。それだけが要因ではないだろうが、南三陸町の人口減少は他の被災地よりも極めて深刻である。震災前(2010年)は17,429人だった人口が、9年後の2020年には36%減の11,317人と大幅減となっている。大規模災害の復興には長い年数がかかる、それを待てない人たちは近接する登米市、気仙沼市、仙台市などに移住した人も多いという。人口減少は地域の体力を奪い活性化を阻害していく。人口が減り続ける町に企業も進出をためらい、働き場を求める若者たちは町を出て行かざるを得ない。南三陸町だけでなく被災地の多くがこうした悪循環(マイナススパイラル)に陥っている。少子高齢化、過疎化、仕事がないという震災前からの地域課題がさらに拡大している。漁業と観光産業発展を復興の基礎としてきたが、南三陸町には観光の目玉となるものが少ない。私は拙著「屋上の円陣」の末尾で被災した防災対策庁舎を世界遺産に登録すべきと提案した。しかし、震災直後から住民たちの意見は分かれ公費取り壊し期限までにコンセンサスが得られなかったため、2030年まで管理権限を宮城県に委託して未来に判断を委ねることになっている。しかし、この先解体か遺構として遺すかも決まっておらず、積極的な観光資源としてのアピールもできにくくなっている。観光産業が進展しなければさらに地域の疲弊は深まる。防災対策庁舎はダボス会議(世界経済フォーラム)でも紹介されるなど、世界に知られた東日本大震災のシンボル的存在。もし、世界遺産に登録されれば周辺被災地域にも観光産業活性化の起爆剤になり好影響を与える可能性が高い。震災から10年、町の発展を願いつつ住民のコンセンサスを得る努力と震災の教訓を国内だけでなく世界に伝えるための行動が求められている。
震災復興記念公園内の祈りの丘
安置された犠牲者名簿安置の碑には「いま、碧き海に祈る 愛するあなた 安らかなれと」の言葉が刻まれている

震災復興祈念公園の「祈りの丘」から見た防災対策庁舎とさんさん商店街
防災対策庁舎の向こう側が八幡川、その奥がかさ上げしてできた「さんさん商店街」

震災復興祈念公園とさんさん商店街を結ぶ中橋(デザイン:隈研吾氏)

南三陸さんさん商店街
かさ上げされた土地に飲食店、お土産物店など28軒が軒を連ねる

さんさん商店街のモアイ像
イースター島(チリ共和国領)から贈られたモアイ像
 1960年5月22日15時11分(現地時間)、南米チリ共和国バルディビア近海を震源とするM9.5(金森博雄博士推定値)の巨大地震が発生。この地震により首都サンティアゴ始め直接的な犠牲者は1,743名、負傷者は667名に上った。本震発生15分後に約18mの津波がチリ沿岸部を襲い、平均時速750kmで伝播した津波は約15時間後にはハワイ諸島を襲った。ハワイ島ヒロ湾には最大10.5mの津波が押し寄せ61人が犠牲になった。
 津波は深海ほど伝搬速度が速い。日本へは平均時速約800㎞のスピードで、地震発生22時間半後の5月24日(日本時間)未明に太平洋沿岸に津波が襲来した。最大6.1mの津波が三陸沿岸に押し寄せ岩手県大船渡で53人、宮城県本吉郡志津川町(現南三陸町)で41人、北海道厚岸郡浜中町で11人が犠牲になった。南三陸町では死者41人、流失家屋312戸、倒壊家屋653戸、半壊家屋364戸、浸水家屋566戸の甚大被害を出した。その記憶を未来に伝えるべく同じ被災国として南三陸町とチリ共和国は友好を深めていく。チリ地震30年周年の1990年にチリの国鳥コンドルの碑がチリから友好の証として南三陸町に贈られた。そして1991年には南三陸町がふるさと創生事業の一環としてチリ人彫刻家に依頼して創ったイースター島のモアイが、志津川地区の松原公園に設置された。(下記写真は震災前に筆者が撮影したコンドル碑とモアイ像)
震災前の松原公園内にあったモアイ像とコンドルの碑(2009年12月て撮影)
1990年にチリ共和国から南三陸町に贈られたコンドルの碑前にあったチリ地震津波災害30周年記念碑(2009年12月撮影)
写真は津波の直撃を受けたモアイ像とコンドルの碑(2011年3月に撮影)
未来に生きる・
 震災で流されたモアイ像の頭部は瓦礫の中から発見されたあと、志津川高校の敷地内に移設された。その後、日智経済委員会チリ国内委員会が、南三陸町に新たなモアイ像を贈ろうと、イースター島の長老会に協力を求めた。93歳の老彫刻家マヌエル・トゥキ氏は「海に破壊された日本の町に、人々が再びそこで生きていきたいと思えるようなマナ(霊力)を与えるモアイを贈れないか?私は息子と共に日本の人たちが必要としているモアイを彫る」と呼びかけた。その時、長老会は大きな拍手に包まれたという。そして、島民の記憶には、かつてバラバラになって倒れていた15体のモアイ像を、1992年に日本の企業(香川県高松市の株式会社タダノ)がクレーンを持ち込んで元の姿に建て直してくれたことをみんな覚えていた。こうしてイースター島始まって以来のプロジェクトが開始された。老彫刻家の息子ベネディクト・トゥキ氏は、島の石を切り出し親戚の彫刻家たちと共にモアイを制作した。高さ3m、重さ2トンのモアイ像と共に南三陸町を訪れたトゥキ氏は、設置されたモアイに白珊瑚と黒曜石で造られた眼を入れた。そして、南三陸町の津波被害の凄まじさを目の当たりにしたトゥキ氏は涙を浮かべながら「眼を入れるとマナ(霊力)がモアイに宿る、南三陸の悲しみを取り払い復興を見守る存在になることを願っている」と語った。モアイはイースター島のラパヌイ語で「未来に生きる」を意味する。門外不出のモアイ像を贈ってくれたチリ共和国とイースター島の人たち、その心のこもったモアイ像は今も南三陸町の逆境を乗り越え未来に生きる人たちをを励まし勇気づけている。
 一番の支援は復興しつつある被災地の美味しい魚と朴訥な人情を求めて観光に行ってあげることである。そして、逆境を乗り越えてきた東北の人たちのバイタリティーとさんさん市場のモアイ像からパワーをもらうこともできる。

震災伝承施設・南三陸町の「高野会館」
330人の命を救った高野会館
 志津川湾から約300mの平地に建つ総合結婚式場「高野会館」。2011年3月11日午後2時46分東日本大震災発生時、3階の宴会場では老人クラブによる「高齢者芸能発表会」の閉会式の真っ最中で、館内には従業員と利用客約330人がいた。強烈な横揺れで客たちはパニック状態になっていた。揺れは長く続いたが鉄筋コンクリート造りの堅固な建物はびくともしなかった。揺れが収まった後、口々に「津波が来る!」と言いながら3階ロビーに人が殺到した。その時、階段前で両手を広げ仁王立ちになって従業員たちが立ちはだかった。「生きたかったら、ここに残れ!」。「会館が崩壊するなら町は全滅する」男性の声だった。声の主は会館の営業部長の佐藤由成さん(64)。1988年の開館当初から勤務するベテラン社員である。設計段階から工事を見ていたので建物の強度には自信を持っていた。
 そして、「お年寄りの足では、途中で津波に追い付かれてしまう」と判断したのは町の社会福祉協議会総務課長の猪又隆弘さん(52)。高齢者が外へ出るよりも、4階建ての上階に留まるのが最善と考えた。その日の参加者は最高齢90代後半で平均80歳代だったからである。体力のあるものがお年寄りを背負って階段を上った。背後に津波が迫っていた。階段を上がっていた社協老人クラブの職員は、1階の窓ガラスが割れたのかガシャン、バキバキという音を聞いた。すぐ跡に2階でも音がするようになる。3階を振り返ると、ロビーの窓ガラスを大量の水が突き破り、あっという間に足元も濡れていた。屋上にも津波が押し寄せてきてひざまで浸かった。社員たちは普段人が入らないエレベーター機械室や高架水槽がある会館の最上部へ避難誘導を始めた。
 屋上から見ると高野会館はまるで陸の孤島のようだった。社員のメモには、午後3時26分に第1波、40分引きはじめ、4時13分第2波、28分引き波開始、5時第3波、10分引き波開始と書かれていたという。その間、人が流されていくのが見えたそうだが何もできなかった。幸い塔屋までは浸水せず、330人は全員無事だった。もし、あの時帰宅しようとして外へ出ていったら多くの人が犠牲になったはずである。従業員たちの適切な判断と断固とした行動が330人の命を救った。この会館は南三陸ホテル観洋の系列であるため、民間施設を理由に隣接する震災復興祈念公園には組み込まれていない。2019年3月、震災伝承ネットワーク協議会により「震災伝承施設」に登録された。コロナ禍で厳しい経済状況の中、民間企業が自費で遺構を今後も管理し続けるのは並大抵のことではない。心ある人たちが声を掛け合い継続的な支援が必要。石碑を建てるよりも、高野会館をそのままの状態で残すことは、後世に物言わぬ語り部を残すことになる。
高野会館前に掲出されている写真

高野会館の屋上

天井まで浸水した3階大広間


東日本大震災で多くの被害を出した三陸鉄道リアス線/2019年3月23日に久慈~盛全線(163㎞)開通
開通から半年後、2019年10月の令和元年台風19号による土砂災害等で一時不通になっていたが2020年3月20日再開した
12月12日から盛~宮古間で洋風こたつ列車、12月19日から宮古~久慈間でこたつ列車が運行されている


震災、台風、コロナ禍
 三陸浜街道の貴重な交通手段であり、震災復興と観光の目玉でもある三陸鉄道リアス線。三陸鉄道は東日本大震災で26駅のうち7駅が浸水以上の被害を受け、線路や法面なども損壊する等極めて甚大な被害を受けた。震災から8年間のブランクを克服し2019年3月に復旧した。 
 しかし、その半年後には令和元年台風19号の土砂災害などでまたも一部区間が不通になった。それが復旧した2020年3月、運行再開の記念式典は新型コロナウイルス感染拡大で中止。予定していた記念式典は、記念列車が釜石駅に到着した後に釜石市民ホールでアトラクションや人気アイドルグループAKB48のミニコンサートが企画されていて550人の来場が見込まれていた。
 そして、せっかく再開したリアス線は新型コロナ感染拡大により、観光客は激減。コロナ禍の長期化が業績不振にさらに拍車をかけている。
 第三セクター三陸鉄道は沿線の自治体首長らが出席する取締役会で、リアス線における4~10月の乗車人員が新型コロナウイルス感染症の影響で前年同期比41.6%減の39万4千人に留まったことが報告された。
 2021年3月決算では経常赤字は6億円が予想され、昨年度の黒字から一転し同社が開業した1984年以来最大の赤字幅となる見通しとなった。復興のシンボルであり、観光客を呼び込む貴重なツールでもあるリアス線が、震災、台風、コロナ禍という連続災禍に見舞われ業績に暗い影を落としている。
しかし、職員たちは地域の足を支える鉄路を守るため、逆境にめげず懸命に努力を続けている。頑張れ、三鉄! 頑張れ、東北!

北リアス線カンパネルラ田野畑駅
駅を中心とした復興まちづくり
 田野畑村が所有する田野畑駅は、駅の運営管理は羅賀自治会に委託している。それもあってか、人のぬくもりを感じさせる駅である。駅名のカンパネルラは宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」の主人公ジョバンニの親友カンパネルラから名付けられた愛称。田野畑駅は入江の傍にある小さな駅だが、周りに住む人たちはジョバンニだったりカンパネルラだったりザネリだったり、懐かしいような愛おしいような人たちばかり。心暖かくほのぼのとしたイーハ―トーブの世界に迷い込んだ気がする。被災した地域のうち26駅中16駅の地域は公的な復興計画と別に、駅を中心とした復興まちづくりを推進している。
田野畑駅(外は昼間でも零下だが、待合室はあったかい)

上の写真は2011年3月震災直後に撮影した田野畑村/多くの住宅が流された

田野畑村のホテル羅賀荘も4階まで浸水したが、現在元気に営業中
田野畑村の震災遺構/津波で破壊された明戸海岸防潮堤


羅賀の津波石(?)と言い伝えられてきた巨岩
重さ約20トン
 田野畑村羅賀地区には、津波の威力を恐ろしさを伝える2つの津波石(「?)がある。元来は海底にあったとされるこれらの巨岩は明治三陸地震津波(1896年)の時に打ち上げられたと伝えられてきた。重さは推定約20トン、海岸から約360m、標高約25mの場所にある。この巨岩が羅賀地区の小学生たちに対する津波防災教育に活用されてきた。ところが最近、これは津波石ではないという研究分析が明らかになっている。
「言い伝えの中には事実と異なる事例がある」という教訓を伝える津波石?

東日本大震災の津波で打ち上げられた新しい津波石
田野畑村・ハイぺ海岸(ハイぺとはアイヌ語でハイ(草)、ぺ(場所)を意味する)


宮古市内(震災直後画像はこちら
宮古駅
宮古駅ホームの「落ちないにゃんこ神社」

上の写真は震災直後の宮古駅
下の写真は10年目の宮古駅(駅の裏側に市役所が建設された)

 
震災直後(2011年3月)の宮古市役所/1階が浸水 

上と下の写真は震災直後の宮古市内(2011年3月撮影)

震災10年目の宮古市内(2020年12月撮影)



気仙沼市
 上と下の写真は震災直後の気仙沼(2011年3月撮影)


気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館/被災した気仙沼向洋高校旧校舎に隣接(左側)して伝承館が設置された(2020年12月撮影)
4階まで津波が来た
 向洋高校旧校舎は、海岸から約500メートル、標高1メートルほどの低地にあった。地震発生時、校内には生徒約170人、教職員約50人がいた。揺れは激しく長く続いた。プールの水が大きく波立ち電柱と電線が大きく揺れていた。いったんグランドに集まった生徒たちは教職員の誘導で高台の中学校に避難し、校舎に残った約50人の職員たちは屋上に避難して全員無事だった。津波は4階まで押し寄せてきた。校舎4階の角には冷凍工場が流されてきてぶつかった跡が生々しく残っていた。教室内の惨状は伝承館に展示されている。

 3階の教室に流れ込んだ車


気仙沼市岩井崎の「龍の松」
東日本大震災時約17mの津波に襲われながら残った松の木
まるで海に立ち向かう龍のように見えることから、いつしか龍の松と呼ばれるようになり
逆境に立ち向かう被災者たちを励まし勇気づけている

被災者の皆様の一日も早い生活再建をご祈念申し上げます

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