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2016年新潟県糸魚川市大規模火災 現地調査写真レポート:文・写真/山村武彦 |
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2016年12月22日(木) 出火原因:ラーメン店・鍋の空焚き 火災発生:午前10時20分頃 消防確知:午前10時28分 消防現着:午前10時35分 糸魚川消防本部:12隊(消火隊9隊、救急隊等3隊)出動 糸魚川消防団:全50隊・760人出動 近隣消防隊支援要請:午前12時頃 県外含む外部消防隊:43隊(消火隊25隊、他18隊) 出動車両:235台 活動人員:1887人 避難勧告:午前12時20分(363世帯、744人) 新潟県:災害救助法適用決定 自衛隊災害派遣要請:午後1時59分 自衛隊災害派遣:陸上自衛隊第12旅団(相馬原)、第2普通科連隊(高田)計155人出動 火災鎮圧:午後8時50分 火災鎮火:23日午後4時30分 焼失面積:約4万㎡ 被害建物:147棟(全焼120棟、半焼5棟、部分焼22棟) 負傷者:17人(軽症10人・中等症7人)うち消防団員15人。負傷者の多くは、火の粉を受けての眼の負傷や煙を吸い込んだもの(消防団の防火帽(ヘルメット)には火の粉を防ぐシールドがなかった、この火災を機にシールド付きとなった) 犠牲者:0 被害額:30億円以上 |
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糸魚川市の背後には北アルプス 2000m級の山々がそびえ 気象状況によってフェーン現象となり強い乾燥した南風が吹き下ろす その風はまちの中心へと姫川沿いに下り大町周辺から日本海に抜ける それを局地風「姫川だし」「焼山おろし」「じもん風」等と呼んで恐れてきた 大町・本町・横町では昭和3年、7年と強風大火に見舞われている 今回の大火もフェーン現象の強風によって発生したとみられる |
2016年12月22日12時の天気図(気象庁) 鳥取大火(1952.4.17)時の気圧配置に酷似 |
2016年12月22日新潟県の気温(アメダス) 太平洋高気圧から日本海低気圧に向かって強い南風が吹いた 山岳で5℃前後の乾燥した風になり、日本海に向かって吹き下ろす 高地から低地に向うにつれて気温が急上昇していく 火災時、新潟県最西端の糸魚川市付近は20℃前後(典型的フェーン現象) 高気温の乾燥した強風が鍋の空焚き火災を大火にしていった 最大瞬間風速は27.2m/秒(糸魚川消防本部) |
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非常に強い南風が吹き続け、延焼する糸魚川駅北地区(22日14時頃・新潟日報) |
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赤の破線が焼失範囲(あくまで目安) |
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火災前の上海軒(しゃんはいけん)/出火元(Google earth) |
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鎮火後の上海軒 |
火元となった上海軒の中は燃え尽きていた 店主は調理場でタケノコと水が入った中華鍋をガスこんろの火に掛けたまま外出 鍋の中身を発火させた。店からの煙に気づいた近くの人が119番通報した ラーメン店主(73)は業務上失火の罪に問われ、新潟地裁高田支部・石田憲一裁判長は 禁固3年、執行猶予5年の判決を言い渡した。 店主は「糸魚川の皆様に対する償いのため、今後の人生を歩んでいく」とコメントした |
上海軒の裏側(1階部分) |
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上海亭(火元)の裏側2階部分 |
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上海亭(火元)焼け跡遠景 |
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戦災を免れた古いまちは路地は狭く軒が連なる木造密集地域 いったん火災が発生すると延焼拡大が早く消火困難となる |
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海岸近くの老舗も類焼(23日10時30分頃)↑ 右上/加賀の井(かがのい・1650年創業) 左下 /鶴来家(つるぎや・1821年創業) 右側中段のオレンジ色の家がが奇跡的に残った金澤さん宅 |
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類焼前の加賀の井酒造(1650年創業) 軒先ひさしを長く突き出す雁木風のつくりで親しまれていた |
加賀の井酒造(海側から見た惨状) |
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類焼前の鶴来家(1821年創業)/私は2009年、ここで昼食をいただいた |
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鶴来家周辺(海側から見たところ) |
鶴来家の惨状 |
老舗の名残太い柱や桁も焼失 |
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焼け野原の中にぽつんと一軒だけ残った |
鶴来家方向から見た焼け残った家 |
奇跡的に残った金澤隆夫さん(35)宅(2008年建築) 建築基準法に基づく、壁、屋根等の防火構造により類焼を免れた 防風対策の二重サッシ・網入りガラスで、火が屋内に入ることを防いだ 火が迫る南側に加賀の井の醸造蔵があり、また周囲の空地が幸いした |
★耐火建築物と準耐火建築物 防火地域の指定で一番厳しい「防火地域」は、木造住宅を建てるには規模から考えても難しい地域。鉄骨造にして耐火被覆を行うか鉄筋コンクリート「耐火建築物」にする必要がある。防火地域は主に都市圏で駅前などの商業地域などが指定される。今回大火となった糸魚川駅前の大町地区は商業地域のため、本来は厳しい規制があるが、遡及特例もあり既存の建物には規定が及ばない。 「準防火地域」では、木造3階建て住宅を建てる場合には、外壁などに耐火時間45分以上「準耐火建築物」の性能が要求される。また木造2階建てでは、延焼のおそれのある外壁や軒裏に耐火時間30分以上、隣地境界との間に一定の間隔が要求されるなど厳しい「防火構造」性能が求められる。 尚、これら防火地域 及び準防火地域では、延焼の恐れのある部分の開口部には、ダンパー付き換気扇や網入りガラスのサッシを設け、隣家からの火災の類焼を防ぐ対策が必要。 ★40年前の酒田大火との類似点 1976年に山形県酒田市で発生した酒田大火と糸魚川大火の類似点は少なくない ①どちらも強風(最大瞬間風速)/酒田で26.7m/秒、糸魚川では27.2m/秒 ②どちらも準防火地域/木造建物の立て込んだ古い都市構造の市街地 ③どちらも残った家は/周囲に空き地と樹木があった ④消防は敗れたが、迅速避難で住民の犠牲者ゼロ 酒田大火で奇跡的に焼け残った木造モルタルの住宅が1軒あった。この家の風上側に幅50メートル、長さ70メートル程の駐車場、駐車場の周囲に樹木が植えてあった」ことなどが災禍を免れた要因と推測されている。今回奇跡的に焼け残った家も周囲に空き地と樹木があった。 ④どちらも出火元は1か所/酒田の火元は映画館のボイラー室、糸魚川はラーメン店 |
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昭和前期に2度の大火を経験していたため土蔵造りの建物もあった それでも場所によっては類焼している |
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約10メートル幅の市道を防御線として必死の消火活動が続いたが 南(左側)から北(右側)への強風で道路を超え飛び火延焼拡大していった (最大瞬間風速24.2m、火災鎮圧まで約10mの南風が吹き続けた) 江戸時代は道路に面した間口長さに比例し課税されたこともあり 道路側間口を狭くし、奥行きのある建物が並んでいる |
★スマート防災のすすめ 手前味噌ですが、今年出版した拙著「スマート防災」の提案 ・火を消す訓練と共に「火を出さない準備と訓練」 ・災害後対処訓練と共に「災害予防訓練」の重要性 ・逃げる・守る防災だけでなく「安全な場所に住む(する)防災」 国土交通省は平成24年、耐火建築物の状況などを基準に「地震時等に著しく危険な密集市街地」を指定している。対象地域は大都市圏を中心に計17都府県、計約5745ha。しかしその中に中小都市の糸魚川市などは含まれいない。 同年に東京都は防災会議で、東京湾北部で冬の午後6時、マグニチュード(M)7.3の地震が発生した場合、約18万8千棟の家屋が焼失するとの予測が示された。これは東京だけでなく日本のどの都市でも決して他人事ではない。 地震や火災はいつどこで起きても不思議ではない。大都市圏だけを指定するのではなく、消防力の弱い中小都市こそ優先し対策すべき。「安全な場所(家)に住む(する)」ために、全国すべての都市を対象として耐震改修の推進と合わせ耐火改修の推進・支援を進めるべきではないだろうか。 |
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RC(鉄筋コンクリート)造りのビルも窓から火が入って全焼 |
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夜間のみ営業する店や空き家もあった |
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2日目に住民の一時立ち入りが許可された 変わり果てた自宅を前に呆然とする人たちが多かった |
自宅の焼け跡を見て、本当に何もなかった 「これからどうやって生きていけば…」と途方に暮れる人も |
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糸魚川市消防本部 |
最初から最後まで現場で指揮した糸魚川市消防署長 池亀孝雄氏 |
★強風・猛火に怯まず40時間闘い抜いた隊員・団員を誇りに思う 通報を受け、消防要員全員出動、非番召集を命じ非常態勢で臨んだ。強風とはいえ、昼間の火災で大火にしてしまい無念であり慙愧の念に堪えない。そんな中でも、強風・猛火にも怯まず、わが町を守るため消防隊員・消防団員たちは一部破壊消防も含め全力で闘い抜いた。私は彼らを誇りに思う。 犠牲者が出なかっただけが救いであり、多くの課題が残った。強風は糸魚川だけでないため、各消防署でも警戒待機が必要な中、駆け付けてくれた隣接消防隊・自衛隊の支援には心から感謝したい。 (定年まで3か月という池亀署長、話の最中も無念の涙が頬を伝う。風速20m以上の暴風時火災に対し、絶対的消防力不足を消防戦術で補完することは極めて困難。過去にも「1952年鳥取大火」「1955年新潟大火」「1956年魚津大火」「1976年酒田大火」など、強風大火が起きてきた。古い木密地域はどこにでもあり、強風はどこででも吹く。決して他人事ではなく全国どこでも起き得る災害である。糸魚川大火は、小規模消防本部の消防力(指針)の在り方と、強風大規模火災対策の課題解決を迫っている。 限られた消防戦力で、団員15人が負傷するほどの強風猛火の中、40時間以上も奮戦しつづけた彼らに、私は満腔の敬意を表したい) |
糸魚川市消防本部は1署、2分署、1分遣 消防力となる消防ポンプ車は9台しかない (小規模消防本部の装備では強風大火に対応できない) |
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対策本部(糸魚川市役所) |
2日目から被災証明が発行された |
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上のボックスは消火栓 |
消防水利は規定通り配置されていた |
消火栓・防火水槽と合わせ、大町には用水が何本も流れている |
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40トン水槽や100トン水槽もあるが 多数の消防ポンプ車が応援に駆け付けたため消火用水が不足気味になり ミキサー車等も動員して消防水利確保に追われた |
火災発生時誰でも使用できる街頭設置消火器 (家庭用より大きな20型消火器が2本ずつ入っている) |
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火災のあった大町区の真ん中にある表示板 |
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地縁団体大町区 斎藤伸一区長の話 |
★大火で犠牲者ゼロは地域の絆 区の中に隣組(5~20戸)が14組ありそれぞれに組長さんがいる。家内が火事を知らせてくれたので、すぐに火元に駆け付けた。その時はもう消防隊が来ていて放水・消火活動にあたっていた。その様子を見たとき「これならすぐ消せる」と思った。 周囲も大火になるとは考えず、周りにホースで水をかけていた。それでいったん家に帰り、再び火災現場に戻ると風が急に強く吹き始め、突風のようになっていた。そのころ100mくらい北方へ複数個所に飛び火し、炎と煙が上がった。 さらに風が強くなり、消防隊の必死の活動も空しく延焼拡大していった。正午過ぎ、防災無線から「大町区に避難勧告発令」が聞こえた。区長として避難勧告発令を確認伝達すべく組長に電話した。しかし、固定電話なので延焼地区の組長は連絡取れない。延焼の恐れのない9つの組長とは連絡が取れ避難誘導を要請。 連絡の取れない組長宅に急行すると、皆すでに避難済みだったのでほっとした。昼間の火事とは言え、これほどの大火で犠牲者ゼロは日頃からの「地域の絆」の成果だと思う。普段から運動会、新年会、お祭りなど、みんな組単位・区単位で対応している。古くから住んでいて、どこの誰が何をしているかみんな知っている。 だから、大火でバラバラに避難しても所在不明者はゼロ。そして、避難訓練も年に2回以上実施していたので、今回も隣近所で声掛け合って短時間で避難が完了できた。同じ地域に住む組のものは家族のようなものだから当然。これからは被災者の生活復旧とさらなる安心コミュニティの充実、そして安全な防火都市づくりにまい進していく。皆さんのご協力とご支援をお願いしたい。 (斎藤区長さんは、以前 糸魚川市での私の講演(2009年10月/糸魚川社会福祉協議会主催)をご聴講いただき、「互近助」「防災隣組」の考え方に共鳴し、自治会の安否確認方法、平時の見守りにその考え方を大幅に取り入れて訓練していた。それが役に立っているとおっしゃって下さった。地域の絆がほどけないように維持していくには、信望の篤いリーダーが必要。齋藤区長さんは住民たちのお父さんのように慕われている) |
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大町区の防災行政無線(後ろに見えるのが北アルプス) 新潟県は2004年に中越地震、新潟豪雨、新潟豪雪に襲われた 糸魚川市ではそうした過酷災害の教訓を活かすため 2005年から戸別受信機(5000円)の斡旋を始めた 半数以上の家庭に戸別受信機が設置されている 午後7:50分と8:30分に定例放送が流れる 一般放送の場合はチャイムは1回だが、火事の時は3回鳴る決まり その日、屋外の防災無線と戸別受信機からチャイムが3回鳴った |
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各地からの支援が届いた(12月25日) |
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罹災を免れた銀行は直ちに非常時払いを開始 |
23日は休日にもかかわらず銀行は店を開けた |
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糸魚川市の対応も早かった |
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糸魚川市はヒスイ原石の産地としても有名 |
ヒスイの宝石言葉/よき知らせ、忍耐、調和、飛躍、福徳、福財、幸運
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糸魚川市大町出身の相馬御風の生家が記念館となっている |
★糸魚川ヒスイ 地元に伝わる奴奈川姫伝説を元に、御風が糸魚川でヒスイ(翡翠)が産出するとの推測を示したことが、1938年(昭和13年)に同地でのヒスイの発見につながった。(御風記念館はヒスイロードを隔てた地区にあり火災の影響はない) |
★春よ来い、早く来い 相馬御風は「早稲田大学校歌」や「春よ来い」の作詞で知られる詩人。年末の大火で何もかも焼かれた被災者には厳しく辛い長い冬となる。被災者たちに一日も早く「春よ来い、早く来い」と祈りたい。そして、祈るだけでなく、心ある人たちは少しずつでも義援金を送ることが被災者支援として最も有効ではないだろうか。 |
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★義援金 |
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上部の空撮写真提供新潟日報 |
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