2007年ペルー地震・現地調査報告(1)
激しい揺れが3分、死者540人
 2007年8月15日18時41分(日本時間8時41分)ごろ、ペルーで強い地震が発生。震源地は首都リマの南南東145キKm、震源の深さは41Km、地震の規模を示すマグニチュードは8.0(米国地質調査所)。1説によると二つのプレートが短時間に連続して動いた双子地震ともいわれている。この地震によりピスコ市、イカ市、チンチャ市などで激しい揺れが3分以上続き、古い(100年〜150年)の伝統的日干し煉瓦積みや、キンチャ造り(エスティーラ(太いアシ)を芯にしだもの、日本の土蔵造りに似ている)の家が多数壊れた。8月21日現在で死者540人、負傷者15000人、倒壊家屋40000戸以上という大きな被害を出し、家を失った被災者は8万人を超えると推定されている。
 州都イカでは日本国籍を持つ現地在住の日系2世山野隆さん(85)も死亡。山野さんはペルー生まれで本籍は熊本県にあり日本とペルーの両国籍を持っていた、死亡の詳しい状況は不明。ペルー人のほとんどはクリスチャンで、夕方のミサに参加していた多くの市民が崩れた聖堂の下敷きになって命を落とした。この地震で海岸線はピスコなどに1〜3mの津波が襲ったが、警報は出なかったものの住民はいち早く退避し被害は軽微だった。

日本の「防災外交」が期待されている

 この地震により日本列島にも津波襲来が懸念され、気象庁はチリ地震津波の教訓を生かして太平洋沿岸に津波注意報を出した。結果は浦河などで約20cmの津波を観測しただけだったが、気象庁の対応は適切だったと思う。
 日本政府は1億5千万円の緊急支援を発表したが、現地の役所関係者たちはから日本の建築技術や防災対策など、お金もありがたいが防災大国日本のノウハウ提供に期待する声が多かった。今後日本は、開発途上国援助(ODA)などを進める場合、単にお金をばら撒くだけでな、防災外交に力を注ぐべきではないだろうか。日本と同じ地震国ペルーは、いまだ防災対策途上国である。
犠牲者はいつも貧しい人たち
 8月19日から26日までの予定で現地に行くことにした。しかし、当初情報では刑務所の損壊で囚人571人が脱走(一部解き放ち)し、100人は戻ったが(自発的または逮捕)大半は逃走中という不穏なものだった。その後ペルー政府は、軍隊と警察官の大量投入を図るなど、アラン・ガルシア大統領が陣頭指揮に当たったこともあって治安は急速に回復したとのこと。念のため直接被災地には入らず、首都リマで詳細情報の収集、さらに被災地イカ市にガイドを送り状況調査を行った。その結果、警備当局の協力と安全確認が得られたので、22、23の両日被害の多かったピスコ市、イカ市を中心に回った。地震の爪あとは深く、今回も耐震性のない家に住まざるを得ない貧しい人たちが多く被災し傷ついていた。彼らの多くは避難場所に入れず、ピスコでは、水、食料、テント、医薬品が不足している中、朝晩冷え込む路上で避難生活を送っている人たちが多数いた。
フジモリ元大統領待望論
 行く先々で被災者から「貧しいものを見捨てず、対応の早かったフヒモリに早く帰ってきて欲しい」という声だった。ある被災者は「貧しいものたちをいつも不幸が襲う、今の政府は無策で貧乏人に冷たい。だからさらに貧しくなっていく」と嘆き「こうした時フヒモリ(アルベルト・ケンヤ・フジモリ元大統領)がいてくれたら」と、7月に返り咲いたフジモリの政敵ガルシア大統領への失望感を訴える。「また壊れるだろうけど、仕方がない」と言いながら散乱した日干し煉瓦を集め、元のように積み始める人たち、その絶望感に満ちたあきらめ顔が印象的だった。このやり場のない怒り、悲しみを救ってくれるかもしれない唯一の希望が「フジモリ待望論」なのかもしれない。
地震の頻発地帯
 ペルーは日本と同じように太平洋プレートが陸地の下にもぐりこんでいるプレート境界地域で、1970年のペルー北部地震ではアンカシュなどで7万人が死亡するなど過去に何度も大きな地震に襲われている。近年では90年、01年の地震で100人以上の犠牲者を出す地震が発生している。そのほか地上絵で名高いナスカ断層やリマの直下断層など陸側の断層地震も懸念されている。
犠牲者のご冥福をお祈りし、被災者に心よりお見舞い申し上げます。
山村武彦
 今回の地震は少し離れた断層が二箇所で動いた双子地震ではないかといわれるが、被害が多かったのはリマから南へ約237Kmの海岸砂漠の町ピスコ市(人口8万2千人)チンチャ市(人口7万人)。建物の約8割は何らかの被害を出していて、無傷だったのはごくわずかである。この町はピスコ河口に発展し大きな漁港があることで知られ、紀元前500年〜300年頃からピスコ北部海岸に発展したパラカス文化も有名。この地域は厚い砂礫沖積層の地盤のため、地震の揺れは長周期地震動となって長く(3分)揺れたものと思われる。
 リマから南へ308Kmにあるイカ市(人口15万人)は1563年に建設されたイカ県の県庁所在地である。ピスコに比べると少し内陸に入っているためか、全体戸数に対する損壊家屋の比率は少ないようだ。ただ、違法に建てられた貧しい地域のアドベ造りに多く被害を出している。(左の数字は8月21日現在)
 この町はアンデス山脈からの地下水をくみ上げて作られた砂漠の中のオアシスで、リゾートホテルも多い。ナスカ地上絵観光もここからセスナが飛ぶ。イカに向かうアエロ・コンドル社の飛行機は、地震被災地であることを知りつつナスカ地上絵ツアーに参加する日本人や白人で満席だった。白人の半分は救援ボランティアだったが、私を除く日本人は全員ナスカ地上絵ツアーの人たち。被災地支援のために観光に行って欲しいと訴えている私としては少し複雑な思いだった。同じ飛行機がイカからリマへ戻るとき、待ちくたびれた負傷者と家族を4組乗せた。

周辺は雨の降らない荒涼たる砂漠地帯(ピスコやイカはそのオアシスとして発展してきた)

現地調査にはパトカー(左)と拳銃を持った屈強な警官(右)が同行警備にあたってくれた

激しい揺れで日干しレンガのアドべ(左・イカ市)や、エスティーラ(太い葦)で葺いたキンチャ造り(右・ピスコ)の古い家が壊れた
 
乾燥した被災地は瓦礫と土ぼこりにまみれた(ピスコ市内・約30円のモートタクシー)

機関銃を持った軍隊が出動し警戒に当たっているため、治安は安定しているという(ピスコ市内)

茫然自失の被災者(ピスコ)

サンクレメンテ教会(ピスコ)では礼拝堂が崩壊、ミサに参加していた300人のうち195人死亡

人形を抱いて瓦礫の町をさまよう成人女性(ピスコ)

ピスコの避難場所でテントが不足していると訴える市関係者たち

崩れたホテル

寒風の中路上で暮らす人たちは4万人以上(ピスコ市・海岸付近)
ペルー地震現地調査報告書(その2)を見る

今回の現地調査にあたって、安全確保と目的達成のためにイマヒナ&エスパシオのジャン・バルバラン・裕子バルバランさんに大変お世話になりました。末筆ながら心より御礼申し上げます(ナスカの地上絵、インカの歴史などペルー観光は地震の影響を全く受けていません。
ペルーに行くことがペルーを応援することになります。そのとき日本語ガイドや旅行のことを相談するのでしたらまずここをおお勧めします)