|能登半島地震・直後現地調査| 1周年現地調査| |
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平成19年能登半島地震・2周年現地調査(山村武彦) |
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あれから(2007年3月25日)2年、輪島市門前町。地震発生時に開催されていた雪割り草まつり。今年もまたその季節がやってきた。(2009.3.17) |
輪島市門前町 曹洞宗大本山總持寺祖院 参道入り口(山門は奥)付近。 1年前と変わっていない。 |
總持寺祖院境内各所で修復工事が行われていた。 |
参詣者から寄せられた復興支援・寄進瓦 (1口1000円) |
門前町には全壊家屋を取り壊したままの空き地と、再建された新築住宅が被災者の生活格差を見せつけている。 住宅を建てなくとも固定資産税は年間10万円ほどかかるという。 |
「弁当忘れても傘忘れるな」の伝承言葉のように、突然天候が変わる。 再建店舗の黒い釉薬を施した能登瓦は、濡れていなくとも誇らしげに光る。(門前町) |
ピーク時に329世帯、736人が入居した輪島市応急仮設住宅の入居期限は4月末。門前町道下の応急仮設住宅は自宅再建、親戚へ身を寄せる人などが引っ越していき、もうわずかな人たちしかいない。その人たちも、市が建設した災害公営住宅に間もなく移転する。 |
輪島市・災害公営住宅(松風台団地)は22棟。44世帯がここで暮らすことになる。 災害公営住宅は1DK〜3DK、家賃は最低でも月1万5千900円、退去時に返還されるものの入居時には家賃3カ月分の敷金も必要。 ある80歳の一人暮らし女性は、1DKの賃貸契約を結ぼうとしているが「月収は年金5万円しかなく、やっていけるか心配」と話す。 高齢者率47.6%の門前町。地震が奪ったものは終の棲家だけではない。 |
穴水市応急仮設住宅にも2年目の春がきていた。ある高齢者は「これからどうやって暮らしていくのか、このままここで死にたい」とつぶやいた。 2年前に書かれた「がんばれ能登」「がんばれ穴水」の文字が空しく感じる。 |
輪島市総務部総務課・防災対策室/末吉 清室長(談) 「課題は防災意識啓発」地震後自主防災組織結成を推進したが、現在組織率は10%に満たないという。 室長自ら地域を回り防災対策、自主防災の重要性を訴えるが住民からは「あれだけの地震が襲ったあとは当分大地震はこないだろう」という声にかき消されてしまう。意識の高い地域リーダーも、高令者、無気力、無関心層が大半を占め苦戦している。それでもめげずに今後も意識啓発にエネルギーを傾注していきたいと室長は語る。 |
1000年続く輪島「朝市」 「寄って行かんかね!」 今日も元気なおばちゃんたちの声が飛び交う。 |
輪島市観光課・観光データによる観光入込客数 平成18年:1,231,600人 平成19年:915,100人 平成20年:1,140,900人 と、昨年は地震前の−7.4%ではあるが観光客は戻りつつあるというが・・。 平成20年の観光宿泊客数は215,900人でしかなく、ほとんどの団体客は和倉温泉に宿泊してから朝市にだけバスでやってくる。 |
まだ傷痕は残っている(輪島市街) |
午前11時、 人影のない輪島駅前通り。 電柱を地下埋設にし、古い街並みを復元して活性化を図ってきた商店街。現在輪島市の人口は33,038人だが、毎月平均80人の人口減が続いている。地震後、過疎化・高齢化に拍車がかかり、町は活力を失いつつある。原因は周辺に仕事がないことだという。 耕地の少ない外浦地域(輪島)では、昔から男は松前船の乗組員等になって稼いで帰ってきた。今、若者は外へ出たきり帰ってこない。高令・過疎地域が被災した場合、多角的・複眼的復興支援を考える必要がある。 |
JRから第三セクター「のと鉄道」に変わったものの、平成13年、穴水‐輪島間は廃線となった。今はモニュメントとしての「ふらっとホーム」があるだけ。ちなみに旧輪島駅には次のような説明書きがあった。「平成13年3月27日まで、のと鉄道が運行されており、この場所に最終駅・輪島駅がありました。そのホームの駅名標(看板)には、通常、輪島駅は最終駅であるため次の駅の部分は空白となるところですが、そこには「シベリア」行きが表示されていました。学生がイタズラ書きしていたものを当時の駅長さんの配慮で「シベリア」行きの標示がなされたようです」以下略。 |
鉄道が廃線となった後、町中を結ぶ「のらんけバス」が市の助成で運行を始めた。運賃はすべて100円。 |
店に貼られたヤンキース松井選手の「元気宣言、能登」 「ステッカー貼れば活性化できるならいいが」と冷めた見方をする人も多い。 |
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