中国・5.12汶川大地震
犠牲者のご冥福を祈り、被災者とご家族jに心よりお見舞い申し上げます
山村武彦 中国・5.12汶川大地震現地調査

☆死者行方不明約87000人
 2008年5月12日14時28分、中国四川省(人口8,722万人)でM8.0の巨大内陸地震発生。震源地は省都・成都から約90Km離れた、アバ・チベット族自治州汶川(ぶんせん)県付近((北緯31度01分5秒、東経103度36分5秒)で、震源の深さは19Km。震源断層は竜門山断層帯で、250Kmにわたる断層が二段階にわたって上下と水平に断層が動いた特異なメカニズムの地震といわれている。
 被害甚大(死者数・6月6日現在)地域は、汶川県(死者15941人)、綿竹市(死者11104人)、北川県(死者8605人)、什邡市(死者5924人)、青川県(死者4695人)、成都市(死者4275人)、茂県(死者3933人)、都江堰市(死者3069人)、安県(死者1571人)、平武県(死者1546人)、彭州市(死者952人)、江油市(死者394人)、理県(死者103人)などで、死者合計69,130人、行方不明者17,824人、負傷者374,031人、避難した人約1,514万人、被災者累計46,160,865人(2008年6月6日現在)
 内陸部の地震としては、1891年(明治24年10月28日)に岐阜県本巣郡根尾村付近を震源とするM8.0と推定される濃尾地震(死者7,273人)に匹敵する巨大地震であるが、被害の大きさからすれば、河北省で発生した唐山地震(1976年・死者242,000人)以来の大惨事となった。地震後、余震が数万回発生していて堰きとめられた土砂ダム、損壊した既存ダムなどの土砂災害、洪水など、二次災害への警戒と対策が必要となる。日本政府は資金及び物資で5億円の緊急支援を発表し、追加支援も視野に入れ対応することを決めている。

☆「72時間の壁」を「黄金の72時間」にできるのはリーダー
 災害後、生死を分けるターニングポイントは72時間である。それを「72時間の壁」あるいは「黄金の72時間」という。災害後24時間以内に救出された被災者生存率は90%、48時間以内だと約50%、72時間以内だと20%~30%。しかし、72時間以上過ぎた96時間になると5%前後と急に生存率が激減する。そのため、災直後に適切な初動対応をとれば「黄金の72時間」となり、後手に回ると「72時間の壁」に阻まれる。発災時、リーダーの器量と危機管理能力は初動対応で値踏みされてしまう。平時は凡庸でも良いが、火急事態出来時、国民の生命財産を守るために臨機応変の命令と行動ができなければリーダーではない。
 台湾南投県集集地震(1999年9月21日・M7.6・死者2321人)が発生したとき、当時の李登輝総統は、地震発生直後に国軍10万人の出動を命じ「山間地は道路が寸断され陸路の救援は困難であろう、落下傘部隊を大量に投入し、人命救助をすべてに優先せよ」と命じた。国軍の活躍で生き埋めの人たち全員が2日以内に救出され、被害を最小限にとどめることができた。
 大規模災害時、小出しの救援派遣より初動対応に全力を挙げるべきである。一度は断った日本の国際緊急援助隊を3日目に派遣要請したが、訓練された日本の国際緊急援助隊の派遣要請はもっと早い段階で行うべきだった。それによりどれだけの人命が助かったか、どれだけ被災者やその家族に勇気と希望を与えたか計り知れない。72時間を大幅に超えての活動は極めて困難な状況と思われるが、人海戦術では対応できない人命の捜索救助が期待されるが、期待に応えるこには生存者がいる事が大前提である。地震後降雨もあったので雨水で生き延びている人がいてくれることがかすかな希望である。日の丸を背負った日本の援助隊が一人でも多くの生存者を地獄から救ってほしいと祈るばかりだ。もし、日本の緊急援助隊が生存者を救出できなかったしても、隣人として隣人を助けるという重大使命と日の丸を背負ったプレッシャーの中、不眠不休で活動した彼らの努力は高く評価されなければならない。現地調査参照
☆限られた初期情報の洞察と初動対応
 一国のリーダーは大規模災害直後、全体の状況確認ができない場合でも、通常の2~3レベル上の緊急救助隊派遣を命じるのが鉄則である。今回中国の救助隊派遣経過は、温首相の陣頭指揮ばかり目立ち、残念ながら72時間の救出タイミングを失し、小出しの救援対応は後手に回っていたように見える。報道による救援体制を集計すると、
12日:成都軍区兵士6,100人、武装警官3,000人を含む16,700人を救援派遣(日本政府、国際緊急援助隊派遣の用意表明)
13日:人民解放軍34,000人増派(中国政府・受け入れ準備整わず、日本政府の援助隊派遣を断る)
14日:人民解放軍、武装警官30,000人増派
15日:合計救援隊160,000人(日本政府へ国際緊急援助隊派遣要請)
 唐山地震(1976年7月28日、M7.8、死者242,419人)は、午前3時42分に発生した。深夜の地震であれば被害全容を把握するまでに時間がかかっても仕方ないと思うが、四川大地震は昼間午後2時28分の地震だった。偵察機を飛ばせば被害全容は直ちに把握できたはずである。にもかかわらず、地震後の対応から判断すると全体の被災情報を把握していないのではないかと思わせるほど、初動対応が万全だったとはいえない。しかし、その後の被災者対応、応急復旧対応は、これまでの中国政府にない迅速な対応で評価されている。現地調査参照
 大規模地震発生時、震源地付近からの情報発信は不可能であり期待してはいけない。リーダーであれば「情報がないという情報」を深刻に受け止め、限られた情報から被害状況を洞察・類推し、発災直後に人と機材を大量投入すべきなのだ。阪神・淡路大震災時、リーダーシップを発揮せず、初動対応の遅れを招いた当時の村山首相は、結果として「黄金72時間」を無為に過ごし「72時間の壁」にして救出救護のタイミングを失してしまった。
☆昼間の地震で甚大な犠牲者が出たのは
 倒壊した小中学校や病院の残骸映像には日干しレンガ・焼きレンガやブロックが多く、鉄筋コンクリートだとしても鉄筋が極めて少ないことに驚く。もちろん、地震の激しさもあるが、粘りのない地震にもろい建物だったことが最大の原因と推測される。被害がこれほど大きくなった要因を推定すると
1、震源が10Kmと浅い地震で、強く激しい揺れに襲われたこと(震源付近は震度7と推定される)
2、レンガ積みなど、耐震性のない建物の構造で揺れを感じてから避難する余裕なく倒壊したと推定されること
3、日本の建築基準法に匹敵する「中国建築法」は、耐震性についてあまり考慮されていなかったこと
4、中国は発展する沿岸部と内陸部の経済格差が大きく、内陸部の建物は古い脆弱な老朽建物が多かったこと
5、多数の市民が利用する学校、病院などの公共施設も耐震性のない建物だったこと
6、道路寸断、天候不良でヘリコプターも近づけない地域もあり救援が遅れたこと

☆斜面崩壊で巨大危険ダム出現(善光寺地震災害に学べ)
 震源地に近い汶川付近で斜面が崩壊し、膨大な土砂で川が堰き止められ巨大危険ダムが400か所も出現しているとの報道。衛星写真でも巨大な危険ダムの存在が確認され、水位・水圧が増すと土砂堤防が決壊し、一気に下流に大量の水と土砂が押し流され大洪水を引き起こす危険性が高い。一刻も早く下流地域に洪水警戒地域を指定し住民に避難命令を下すべきである。
 中越地震・山古志村でも河川の崩壊堰き止めができたが、規模からして私は善光寺地震(1847年5月8日・M7.4・死者8800人)を教訓にすべきだと思う。善光寺地震の主な犠牲者は、地震によって壊れた家の下敷きになった人と火災によって焼死した人のほかに、洪水によって死亡した人もいた。善光寺地震で犀川右岸にある虚空蔵山斜面が崩壊し、その土砂で50mを超える巨大堤防による崩壊ダムが出現し、藤倉、古宿の二村が水没、十数か村を浸水させた。巨大危険ダムの深さは約60mにも達していた。そして、地震から20日後の5月28日夕方、巨大危険ダムの堤防が大崩壊を起こし、急流と化した水と土砂は川中島まで押し寄せ31か村を押し流した。この様子を元に、地震後「死にたくば信濃にござれ善光寺、土葬、水葬、火葬まで」と狂歌がつくられるほどだった。しかし、一部の地域では崩壊の危険を察知し監視を怠らず、危険と判断した時点で避難命令を出し被害を最小限にとどめたところもあった。温故知新、今回の四川大地震でも同じ轍を踏まぬよう、こうした善光寺地震の教訓を生かして最悪に備えるべきである。
☆開かれてきた中国?
 唐山地震(1976年7月28日・死者242,419人)が発生したとき、中国はまだ竹のカーテンが分厚く張り巡らされていた。その4年前の1972年に田中角栄首相と周恩来首相が共同声明に調印し日本と中国は国交正常化の道を歩みを始めていた。それでも国家の面子に関わることや不利益になると思われる情報は一切伏せら公開されることはなかった。1966年から吹き荒れた文化大革命の嵐がようやく静まったのが1976年だった。その年の7月28日・唐山地震、その43日後(9月9日)・毛沢東主席死去、その27日後(10月6日)・四人組逮捕と、混迷を続け多数の犠牲者を出した「暗黒の10年」にピリオドが打たれた年だった。
 にも関わらず「中国で大地震が発生した」という情報はあっても、詳細(死者数)情報が開示されたのは3年後だった。その後も長い間、唐山地震の被災地へは許可を取らなければ「外国人立ち入り禁止」と厳しい制限が続いた。唐山地震の死者数も24万ではなく60万人以上だったという情報は以前からあったが、唐山被災地域立ち入り規制は、最初に政府が発表してしまった被災情報があまりにも実情とかけ離れた内容だったので、それを糊塗するためではなかったかと今でも言われているほどである。
 それから32年後、四川大地震における政府の対応や報道ぶりをみると隔世の感がする。中国人の友人が言った「地震の死者数や被災者数が毎日報道されていることに感動した」という言葉がすべてを語っている。また、外国援助隊の派遣要請など、少し前までは考えられないことだったし、被災者や遺族が外国メディアの前で政府批判をするのも初めて見た。要因として、直前に発生したミャンマーサイクロン災害や北京オリンピック、上海万博開催前ということもあるだろうが、一時的にせよ経済発展とともに中国が大きく変わってきたことは間違いない。情報開示せざるを得なくさせた功績は6億台の携帯電話・2億人のネット人口にもある。どれほど政府が隠そうとしても、地域・国境・時空を越えて生の情報が世界を駆け巡る時代。隠せば隠すほど茶番になってしまう。一時的にせよこうした中国の変貌は当たり前のことだが喜ばしい限りである。
 とはいっても一党独裁、富国強兵の国であることも厳然たる事実である。個々の情報開示より、政治体制と社会秩序の維持が最優先される。秩序維持に反する事象の報道規制や、為政者に不都合なサイトやブログ削除の体質体制が変わったわけではない。甚大な被害を被った地域はチベット族を含む多数の少数民族・自治地域であり、経済格差・貧困地域、三農問題(農業、農村、農民)を抱える内陸農村地帯などが混在している。唐山地震時代に比較すれば情報公開はかなり進んだ。しかし、災害直後はともかく一段落したあと、報道の自由がそのまま続くとは思えない。マスコミは表面的被災状況だけでなく、こうした中国の変化と流れ、流動する政治背景、重層的中国事情を勘案しつつ取材しなければ、被災者や情報提供者を窮地に陥れるだけでなく、災害の実情、復旧体制の本質は伝えられないだろう。
☆竜門断層帯
 震源とされる四川省北西部汶川市付近には、竜門山から大涼山にかけ南北に走る「竜門山断裂帯」がある。今回の地震はその断裂帯(断層帯)付近で発生したものと推定される。この周辺では、四川省・松潘-平武地震(1976年8月16日・M7.2)や雲南省・竜陵地震(1976年5月29日・M7.6)が発生しており、虎牙断層、鮮水河断層、馬片断層など多数の断層が集まる「ひずみ集中帯」である。これまで、雲南省と四川省では地震が交互に起こるといわれ、ひとつのひずみが解消されると他の周辺ひずみが整合性をとろうとエネルギーが放出される場合もある。周辺地域の連続地震も否定できず、地震計増設など事前警戒の強化を急ぐ必要がある。

☆四川省の学校6900棟倒壊(対岸の地震ではない)
 日本で同規模の地震が発生すれば、四川省ほどではないにしても大きな被害が出ることが考えられる。最近発生した日本国内の地震は、学校の放課後か休日に発生している。そのためもあり学校の危機感は低く耐震化は約50%と進まず、また、学校の防災マニュアルは形式的なものが多い。公立の小中学校は防災拠点としての役割もあるが、躯体の耐震性はできていても非構造体や設備の耐震性はほとんど省みられていない。また、四川省では多くの病院が倒壊したが、日本の病院における耐震化率は36%でしかない。中央防災会議などが発表する「被害想定」も、新幹線などの被害、高速道路の倒壊、人が集まる場所におけるパニック被害などはカウントされていない。災害対策というのは「悲観的に準備して楽観的に行動するもの」で、全て完璧な対策をするのではなく、最悪の事態に備え、最悪を防ぐための優先順位を明確にした対策をとる必要がある。日本でも同規模の地震がいつ、どこで起きても不思議はないのだから。

四川大地震現地調査