2018年インドネシア スラウエシ島地震
 
現地調査写真レポート/文・写真:山村武彦 
犠牲者のご冥福をお祈り申し上げ、被災者に心よりお見舞い申し上げます

地震概要
・発生日/2018年9月28日18時2分(日本時間19時2分)
・震源/インドネシア共和国・スラウェシ島中部スラウェシ州ドンガラ県・パル市北方78㎞(南緯0.2度、東経119.8度)付近
・深さ/10㎞
・規模/M7.5(USGS・米国地質調査所)、インドネシア気象地球物理庁/M7.7(BMKG)
・津波/最大11m(日本への影響はなし)
・死者/死者・行方不明者3,565人(死者の大部分は津波と液状化によるもの)・負傷者約1万人・避難者約20万人(10月25日現在)
・被害/最大震度6弱~6強の揺れのあと、5分から40分後に津波が押し寄せ多くの住宅と人が流された。内陸部では大規模な液状化が発生し、シギ県ジョノオゲ村やランガレソ村ではモスクや橋が大量の土石流で流されたり、一部では2階の屋根まで泥水が噴き出したという。
・津波発生のメカニズム/南北に走る断層が水平にずれ動いた「左横ずれ断層」
・津波発生原因/国際協力機構(JICA)調査団(26人)の一員で港湾空港技術研究所の佐々真志氏はは「パル湾で発生した津波は液状化によって引き起こされたもの」と結論付けている。地震の激しい揺れにより湾に面した地域で液状化現象が起き、陸地の土砂が海中に滑り落ちた衝撃により湾内の海面が押し上げられ津波を発生させたという。現地調査で少なくとも5か所でその裏付けとなる痕跡を確認したとのこと。パル市と同じように扇状地に発展してきた都市は日本にも多数あり、地下水位の高い地域ではどこでも起こり得る災害。日本でも「液状化津波」への警戒が必要となる。
パル湾海底で不規則に発生した複数の地すべりによって引き起こされた津波(Hasrul Saputra)

スラウェシ島(Sulawesi)
・概要/赤道直下に位置する約19万㎢の島。4つの半島が細長く延び「蘭の花」のような形と評される。西にカリマンタン島、東にマルク(モルッカ)諸島、北にセレベス海を挟んでミンダナオ島、そして南にフロレス海を挟んで小スンダ列島(ヌサ・トゥンガラ諸島)に隣接する。
・名称/オランダの植民地時代はセレベス島と呼ばれたが、インドネシア独立後はスラウェシ島と呼ばれている。
・人口/1,740万人
・最大都市/マカッサル(Makassar)/(旧名ウジュン・パンダン・Ujung Pandang)人口約134万人



インドネシア共和国(Republik Indonesia)
・東南アジア南部に位置する共和国(立憲共和制)/首都はジャカルタ(ジャワ島)
・世界最多の島嶼国家/大小13,466の島で構成されている
・人口/約2億5791万人(世界第4位)
・面積/約190万4569㎢(日本の約5倍)
・宗教/世界最大のムスリム(イスラム教)人口

パル-コロ断層
 震源周辺には左横ずれ断層であるパル-コロ断層が、スラウェシ島北西沖からパルを経由してスラウェシ島中部まで、北北西から南南東に延びる形で分布している。この断層の平均変位速度は32-45 mm/年と非常に活動的であり、スンダプレートとモルッカ海プレートのトランスフォーム境界とされている。この地域では繰り返し大地震が発生し、地震多発地帯のひとつである。
 スラウエシ島はインドネシア中部にある島で大スンダ列島に属する島で、西にカリマンタン島、東にマルク(モルッカ)諸島、北にセレベス島、南にフロレス海を挟んで小スンダ列島が位置する。西スラウエシ州、南スラウエシ州、中部スラウエシ州、南東スラウエシ州、南スラウエシ州、北スラウエシ州、ゴロンタロ州と6つの行政区域で構成されている。今回の地震は中部スラウエシ州の中央部で発生した。
 2005年1月24日にマグニチュード6.2の地震が発生している。
 赤道直下で一年中最高気温は37℃から40℃、最低気温は24℃から25℃。

中部スラウェシ州州都パル(人口342,754人)最大のショッピングモール/パル グランドモール

ドンガラ県パル市/パル川河口に発達した街、中心部はパル湾の最深部に面し、津波が収斂され甚大被害となった

地震から7日目の10月4日から6日まで被災地を回った(指さす看板の中ほどまで浸水)
上図はパル湾に面したパル・グランドモール/地震の約30分後に最大津波(3m)が襲ったという
買い物客たちは従業員の誘導で2階と3階に避難して全員無事だったが1階の天井近くまでの波で店内はガレキと化した

パル・グランドモールの広報部長IRWANT氏(上図左)

最初は水・食料だけだったが・・・
 津波が引いた翌日から3日間、パニック状態になった人たちが押しかけ商品を持ち去っていった。パル・グランドモールの広報部長IRWANT氏は「あれだけの津波だから、住民がパニックになるのは仕方ないが、でも少し悲しく、寂しい」と話す。最初は水食料が主だったが、2日、3日後になると電化製品やパソコンなどまで持ち去られた。とくに武装しているわけではないが、あまりにも多数の人たちが昼間堂々と商品を持ち去るので人数の限られた警察官も一部で発砲したり逮捕してもいるが、一時は見て見ぬふりをせざるを得なかったという。
 今は機関銃を持った兵士が24時間体制で警備しているし、救援物資が配布されていて治安は安定している。市民からは「略奪行為は本当に一部の人だが情けなく恥ずかしい」と嘆く声も聴かれた。災害時、どこの国でもよくあるのは、不埒な輩が壊れた商店から水食料を拝借するケース。それを見ていた普通の人が「こういう時は持ち出していいのか」とつられて一気に広がってしまうことである。 日本の車両メーカートヨタのショールームもガラスが割られ、展示車のタイヤが盗まれたという。最初の水食料は「家族の命のために」という言い訳もわからないでもないが、家電品、パソコン、タイヤに至っては便乗した情けない火事場泥棒以外の何物でもない。

津波は店の海側(奥)からやってきた。そのあと引き波で周辺の車や人が店内を通って海に流されていった
パル・グランドモールのオーナーKARMAN KARIA会長(左)、IRWANT広報部長(右)
「買い物客と従業員が一人も犠牲にならなかったのがわが社の一番の誇り」と会長
POSO CITY MALLなどスラウェシ島内に14の大型店舗を展開する同社の建物は地震の揺れでは壊れていない
会長は「街の復旧と市民の生活を支えるため、なんとしても3か月以内に店舗を再開する」と明言


津波警報解除は早すぎたのか
 地震発生直後の18時02分~18時03分、日本の気象庁にあたるBMKG/BANDAN METEOROGI,KLIMATOGI,DANGEOFISIKA(インドネシア気象地球物理庁)は、0.5m~3mの津波が襲うとして中スラウェシ州、西スラウェシ州沿岸に津波警報を発令。そして34分後に津波警報を解除。一部では「警報解除後に津波がきた」「警報解除が早すぎたのでは」「地震直後に停電となり津波警報を知らせるサイレンが鳴らなかった」など、関係機関の対応について不満の声が上がっている。警報解除と第一波の津波がドンガラ市やパル市に到達した時間の前後関係は地域によって異なり詳細は不明だが、広い範囲の海岸に2m~11mの津波が押し寄せ多くの家と人が流され1800人以上の犠牲者(10月7日現在)を出したことは事実である。行方不明者も多く犠牲者数はさらに増える可能性がある。(一説には行方不明者は5,000人に上るという情報もある)2004年にスマトラ沖地震津波という未曽有の津波災害を経験しているインドネシアで、なぜこれほど多くの津波による犠牲者を出してしまったのか。
 海岸から約10mほどのパル・グランドモールの広報部長IRWANT氏に話を聞くと「停電になったが、携帯電話に津波警報メールが届いた。それで急いで買い物客や従業員を3階に避難させることができた。1波か2波かはわからないが地震から約30分後に3mの津波が押し寄せ1階をめちゃくちゃにした。その後の引き波がものすごい音を立てて何もかも海にさらっていった。大きな津波はその1回だけ」という。このモールでは携帯メールで津波警報を知って適切な避難誘導ができたことで犠牲者はゼロだった。しかし、多くの犠牲者は警報を知らずに逃げ遅れたものもいたという。とくに当日は市制の周年行事のイベントが海岸通りで開催され、多くの人たちが海岸に集まっていたこと。また、モスクなどで金曜礼拝が18時から始まっており、男性が祈りを捧げている時間帯のモスクを津波が襲って犠牲になった人たちも多い。
 BMKG
の地震津波部長ラハマット・トリヨノ氏は「ネット上に出回っている津波の映像を見る限り、警報解除の前に津波は到達していたようだ」と語っている。 929日の記者会見で解除の根拠やタイミングを問われたトリヨノ氏は「警報解除は通常の規則に従ってとられた手段である」として特に問題ないとの姿勢を示した。その根拠とはパル市に最も近い潮位観測所からのデータに基づくものだったという。その潮位観測所はパル市から約200㎞離れている。「その観測所のデータでは通常潮位の6cm程度の上昇だったので津波警報を解除した」という。
役立たなかった早期津波警報システム
 22万人の犠牲者を出した2004年のスマトラ沖地震津波を受け、各国の支援でインドネシアは主な海岸線に早期津波警報システムを構築してきた。インドネシア気象地球物理庁(BMKG/BANDAN METEOROGI,KLIMATOGI,DANGEOFISIKA)によると、パル市に配備された警報システムは9月26日の定期点検では正常に作動していたという。しかし、地域住民に聞くと「警報システムがあったとは知らなかった。それにあの日はサイレンは聞こえなかった」と話す。BMKGの広報担当者は電話での問いに「原因は調査中だがサイレンは鳴らなかったようだ、地震後の停電が原因かもしれない」と答えた。この早期津波警報システムは沖合に設置された海底センサーとブイで津波が観測されると、自動的に陸に設置されたモーターサイレンが吹鳴される方式。しかし、22カ所あったセンサーとブイは維持管理や点検の予算がなく、整備不良でほとんどが機能しなかった。インドネシア国家防災庁の報道官は10月3日の記者会見で「政府予算の中で防災へ向けられる予算が少なく、毎年削られている。システムの整備や保守点検もできないくらい」と資金不足を挙げている。
 日本を含め各国は大規模災害発生後に優れたハイテク防災システム設置などの支援を積極的に行うが、その国の技術レベルや予算状況などはほとんど念頭においていない。もしかしたら善意の押し売りになっていないのだろうか。優れたシステムや機器も維持管理費用が捻出できなければ無用の長物になりかねない。もし、システム設置で安心し津波の恐れがあればサイレンが鳴るものと思っていて避難が遅れたとしたら、援助はかえって仇となってしまう。もし支援するのであれば、その国にあった息の長い支援が必要。そうしたランニングコストのかかるハード支援だけでなく、地域ごとの住民一人一人の防災意識・知識の啓発など、繰り返し心の堤防を高くすること、防災隣組をつくることなど安全の仕組づくりに支援の力点を置くことが重要。

マカッサル海峡に面したミナハサ半島沿岸では、パル市の東西を結ぶ観光名所ポヌレレ(Ponulele)橋が津波で倒壊

パル川に面したマンション


パル市警察本部も津波で被災
地震発生が金曜日のイスラム礼拝の時間、金曜日は男性だけがモスクで祈りを捧げる
非番だけでなく警察官たちの多くがモスクに出かけている時間帯でパトカーが多数被災

流されたモスク

スーパーマーケット

打ち上げられたサンゴ礁
海底に堆積していたと思われるサンゴの残骸などが土石と共に打ち上げられていた



パル空港旅客ターミナル

パル空港で飛行機が飛ぶのを待つ人々


 管制塔倒壊
職務を全うした若き管制官
 大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ(Sulawesi)島のパル(Palu)空港で、地震発生時勤務中だったアントニウス・グナワン・アグン(Anthonius Gunawan Agung)航空管制官(21)は、揺れが続く中でも現場を離れるようにとの上司の指示を拒み、大揺れ前に旅客機を無事離陸させた。アグンさんは、その後倒壊した管制室(4階)から脱出を試みたものの重傷を負い病院で死亡が確認された。命をかけて職務を全うした管制官を「英雄」とたたえる声が相次いでいる。インドネシア管制会社(AirNav Indonesia)によると、アグンさんは管制に当たっていた地元バティック・エア(Batik Air)機が離陸するまで、担当外の同僚たちが避難していく中でもその場を離れようとしなかった。「地震が起きたとき、彼はバティック・エア機に離陸許可を出すところだった。そして、同機が安全に離陸するのを待って、ようやく管制塔を離れ始めた」(管制会社の広報担当者)。バティック・エア機が無事離陸した後、地震はますます強くなっていき、そしてマグニチュード(M)7.5の大地震と津波が襲った。もし、揺れが激しくなってしまえば離陸失敗・墜落などの可能性もあり、その場合は多数の犠牲者が出たとみられている。命を懸けて職務を遂行したアグン管制官。その高潔な使命感と勇気に涙ながらの賞賛の声が空港や政府に数多く寄せられている。

管制塔近くに設置された臨時管制室? 

内陸部では液状化(シギ県ジョノオゲ村)



ドンガラ刑務所
ドンガラ刑務所に地震発生当時収容されていた約340名の受刑者のうち98名が脱走
イスラムの金曜礼拝中の大地震で!建物が大きく揺れ、塀が倒壊し、建物の数か所が崩れた
経験したことのない大揺れに動転し家族の安否確認したいなどと、パニックになった受刑者たちが火を放ち解放を要求
5人の刑務官が説得しようとしたが対応困難として、脱走を見て見ぬふりをするしかなかったという
ただ、周辺地域での犯罪行為の報告はなく、人的暴力もなかったので死傷者は出ていない
パル市内での掠奪は近くの住人たちが主で、受刑者たちとは無関係と言われている
現在、98名のうち5名が自発的に戻っていて、その他もほぼ居所が把握されているという
「ドンガラ刑務所で500名以上脱走」など、オーバーな情報がネットを駆け巡って被災地をさらに不安に陥れた






インドネシア・スラウェシ島・中スラウェシ州ドンガラ


津波が面で全体に押し寄せたところもあるが、直線的に一部分だけ襲ったとみられる場所もある
(海底の地形によるものか)


3m程度の津波が10分後ぐらいに襲ってきたという/ドンガラ地区
携帯メールで津波警報を聴き、RT(町内会)会長や住民同士が声かけ合って高台に避難してこの村は全員無事だった

奇跡の1本ヤシ



家を失った人たちは、モスクに避難するか粗末なテントを張って雨露をしのいでいる

従来の道路は土砂災害や橋の流失で通行止め、海岸線の仮設道路がメイン

連日38℃・赤道直下の肌を刺す強烈な陽ざしを浴びながら募金を募る被災者

 甚大な津波被害を受けたドンガラ(DONGGALA)で段ボール箱をもって寄付を求める少女
フィチュラさん(FITURA・14歳)は、地震直後に裏山に避難し家族(6人)も全員無事
しかし、彼女の後ろに見える自宅は基礎だけ残し跡形もなくなっていた
生活再建を模索する両親の力になればと、3日前から毎日路上に立ち募金集めをしている
「最初は恥ずかしかったけど、励ましてくれる人がたくさんいて勇気が出てきた」という
幼い弟や妹たちのためにも


救援物資満載のトラック数千台・続々と被災地目指し悪路をひた走る
パル空港混乱状態のため拠点のマカッサルから無休憩で30時間、マルジュからでも約14時間以上悪路を走らなければならない
道路わきに24時間、RT(町内会)の住民が交代で被災者支援と被災地に向かう救援隊やボランティアを応援し励ます
マルジュから向かった我々にも「スイカ食べてって」「水もあるよ」「少し休んでいったら」「がんばって」などと声がかかる
日本が作ったインドネシアの隣組(RT)
 フィリピンのバランガイ、香港の街坊会、韓国の班常会などのようにアジアには各国に特徴のある地域コミュニティがある。インドネシアでも同様の組織がある。それは第二次世界大戦中に占領日本軍によって導入組織された宇常会(通称RK/(Rukun Kampung)と隣組のルクン・トゥタンガ(通称RT/Rukun Tetangga)という制度。この制度は戦後に多少の変遷はあったもののRT、RKという名称で今もインドネシア各地に引き継がれている。今回の地震津波発生時、このRT(町内)会長などが津波警報を受けて住民に早期避難を呼びかけ、人的被害ゼロの地域が多数あったという。日本軍が残した道路や飛行場なども多々あるが、今でも劣化せずむしろ進化し活用されているのは隣組(RT)制度かもしれない。数百年間にわたり植民地としてきたオランダよりも、搾取目的のオランダ(白人)から解放し数年間だけ占領統治した日本に多くのインドネシア人は親しみを感じている。マカッサル市の不動産屋は「日本人に家や部屋を貸すのが一番安心、中国人は汚くするし支払いがルーズ、韓国人は隣人とトラブルを起こす。それに両者とも騒がしい」と言っていた。日本人と見てのリップサービスもあるだろうが、そのまなざしは真剣そのものだった。
 1941年12月8日の太平洋戦争開戦と共に日本軍は東南アジアに侵攻。1942年3月1日にインドネシア ジャワ島への上陸作戦が開始され、オランダ統治時代にバタビアと呼ばれたジャカルタには作戦4日後に日本軍が上陸し3月9日にはオランダ軍が無条件降伏。軍司令官がジャワ総督となり軍政が敷かれた。行政組織は、州(Syuu)、県(Ken)、市(Si)、市区(Siku)、郡(Gun)、村(Son)、区(Ku)に再編された。軍制組織の業務が増加するにつれ、業務の円滑を図るためにジャワ軍政監は1944年「隣保組織整備に関する件達」で「隣保組織整備要綱」を発令。この発令の約1か月後、日本国内では「万民翼賛・統制経済ノ運用、国策ニオイテ地方共同ノ任務ヲ遂行セシムルコト」とされ、隣保扶助の隣組は大政翼賛会・戦争遂行の下部組織に組み込まれていく。
 インドネシアにはゴトン・ロヨン(Gotong Royong・互助精神)という古来からの伝統的相互扶助の精神風土によるコミュニティが根付いていた。これは統治政府からの強制ではなく自然発生的な地域ごとに特徴のある地域コミュニティの原型となる組織形態であった。そこへ日本の占領軍の「郷土防衛、経済統制ノ組織トシテ、地方共同ノ任務ヲ遂行セシムルココト」を目的としたジャワ隣組制度が発足する。日本のジャワ軍制監部が設置した隣組制度は本国の「隣保組織整備要綱」をそのまま踏襲したもの。
・基盤とする精神=隣保扶助ノ精神(日本国内=隣保団体ノ精神)
・遂行する任務=地方共同任務ノ遂行(日本国内=地方共同ノ任務遂行)
・組織の機能=郷土防衛・経済統制ノ組織・実践単位・軍政ノ浸透(日本国内=万民翼賛・統制経済ノ組織・実践単位・国策ヲ広く国民ニ浸透)
 インドネシアには古来ゴトン・ロヨン(互助精神)があったため、日本軍の「隣保扶助」という当初のキャッチフレーズはインドネシア社会でも受け入れやすかったものと思われる。しかし、その実態は戦争遂行のための下部組織であった。郷土防衛は主に防空・防火・防諜・防犯などが主な任務。成人隣組員の男性は、毎晩のように夜警や防空訓練、消火訓練、救助救急訓練に参加する義務を負った。普通は5~8の隣組をつかさどる宇長を通じて区からの伝達事項が隣組長から各戸へ伝えられ、会費はなかったが葬式や清掃などは共同参加することになっていた。1944年頃からは、インドネシア語、ジャワ語、マドゥーラ語で月刊4ページの隣組新聞が発行され、軍政の広報宣伝や伝達事項を区長、宇長、隣組組長を通じ配布されることになる。1944年11月8日には「第1回ジャワ・マドゥーラ隣保総会」が開催されている。軍制は労働資源のためインドネシア人を動員し、動員される人を「ロームシャ」と呼んでいた。ロームシャの供出人数が区、宇、隣組に割り当てられ、ロームシャを募るためか失業者名簿作成を含めロームシャの徴発権は宇長と隣組長にあった。家族の中の働き手である男性がロームシャになると困るため、住民にとっては軍政がもたらした最大の恐怖となっていく。1944年6月におけるジャワ宇常会64,832組織、隣組は508,745組織となった。
 1945年日本の敗戦後、各地の統治者やスルタンが1945 年11 月に指令 を発令し、隣組・字常会をそれぞれRT(Rukun Tetangga)、RK(Rukun Kampung)と改称し、1946 年12月までにRK・RTの中に経済・社会・防犯・総 務・婦人・青年の 6部門からなる社会組織の編成 と新執行部の選出を行うよう指示して いる。
 今回地震が発生したスラウェシ島の各地でも戦時中に日本が作った隣組が、一部改編されたもののRTという名で住民組織としてそのまま引き継がれている。RTの位置づけには法的根拠もあり住民に加入が義務付けられている。夜警も交代で行われていて理由なく参加しないと罰金が課せられる。地域住民の自警団活動で犯罪者が入りにくいとされるが、いったん泥棒が夜警に捕まると時にはリンチを受けることがある。警察に捕まったほうがいいという泥棒もいるという。今回の地震で損壊した刑務所から脱走した受刑者たちに対し、地域の人たちは比較的寛容で「あれだけの地震だから、家族の安否を心配するのは当然」というRTもいる。中には脱走受刑者に飲食を提供した商店や、洋服を着替えさせて小遣い持たせたものもいるという。
 RTの会長は地域に信望の篤い人が住民の話合いや選挙で任命されている。RTが複数集まったものがRW(Rukun Warga・連合会)と呼ばれている。RT会長やRW会長はバパ(BAPAK・MRの意味)またはそのまま「RT」「RW」とも呼ばれ、地域社会のリーダーとして「地域のお父さん」として尊敬を集めている。行政とのパイプ役など日本の自治会に似た活動をしているが、これまで防災訓練などはとくに行ってこなかったという。ドンガラで会ったRT会長は「これからは日本のように防災セミナーや津波避難訓練などを企画して、住民の防災力を高めていきたい」と語っていた。早期津波警報システムなどのハイテク支援や防潮堤を高くすることも大切。だが、本当に大切なのは一人一人の心の堤防を高くすること、そして、向こう三軒両隣の「防災隣組」づくりなど「普遍的な安全の仕組づくり」が極めて重要ではなかろうか。

無料!食べもの・お茶・コーヒー・手当
海辺の被災者救援所

お小遣いを持ち寄って買ったお菓子を配る子供たち(被災地のために何かできるのが嬉しいという)


 パルから離れた地域でも子供たちが「パルを助けよう」と募金活動

道路沿いにはモスクを中心に3㎞~5kmごとにPOSCO(救援所)が設置され
避難者受け入れ、救援者支援を行っている。ムスリムでなくても利用できる
「POSKO」とは、必要に応じ自治体、モスク、大学、町内会・隣組、NPO等が主体となって被災者を支援する救援拠点

ガソリンスタンドには「ベンジン(ガソリン)売り切れ」の紙が貼られていた

延々と続く給油待ち大渋滞

ポリタンクでガソリン給油を求める列

混乱を避けるため給油は警察官や兵士が担当、周辺で機関銃を持った兵士が見守る(一人10リットル以内)


ペットボトル入りガソリンの路上販売(ボトル ベンジン)
スタンドではレギュラーが1㍑6500ルピア(50円)だが、ここは1㍑15000ルピア(115円)で売られている

 
燃料を満載したタンクローリーが続々と被災地を目指す


デマ・フェイクニュースに対応
 ツイッターなどのソーシャルメディアで地震直後から「ダムが決壊する」「さらに大きな地震が発生が予測されている」などのフェイクニュースが広がった。そうしたデマ情報に添付された写真は2004年のスマトラ沖地震や他の火山の噴火のものなどで、ほとんどが今回の地震や噴火と無関係のものばかりだった。中には「パル市のヒダヤット市長が地震で死亡した」などもあった。地震の数日後にスラウェシ島のソブタン山が噴火する等市民が怯えている心の隙間を狙った卑劣で悪質な犯罪。
 こうしたデマ情報に対し、政府は毎日のプレスリリース時に一つ一つ明確に否定。また、国家防災庁のストポ・プルウォ・ヌグロホ報道官は自分のツイッターでデマを丁寧に否定する内容を投稿した。これらの投稿に対するツイートは7,000回以上シェアされている。こうした政府関係者など権威のある関係者の投稿により徐々にデマも下火になっていった。
 インドネシア情報通信省は、デマの拡散をしないよう呼びかけると共にフェイク(偽)と思われるうわさや写真・動画を通報するように訴え、すでに逮捕者が出ている。また、同省が今年5月に開設した「問い合わせツイッターアカウント」が窓口になるフェイクニュースや不快コンテンツ取り締まりが功を奏しつつある。
 北海道胆振東部地震のときも一部では「役立つ情報」と判断した善意の拡散者がいて、瞬く間に「さらに大地震発生が予想される」「水道が間もなく止まる」「停電はずっと続く」などのフェイクニュースが駆け巡った。今後も発災時にはこの種のデマや風評に基づく根も葉もないフェイクニュースが拡散する可能性がある。デマだからと無視したり軽視したりせず、関係機関が繰り返しきちんと丁寧にそして断固として否定することが大切。、また、フェイクニュースの発信元を通報する仕組みを事前に構築し、決して許さない姿勢を示す必要がある。

以下、町の風景

椰子の実の殻は乾燥させると高級な炭になる、これで鶏肉などを焼くとうまいという


空心菜などの野菜もバイクで「ジュワラン JUARANN!(ヤサーイ!)」の売り声でやってくる

庭先のカカオビーンズを天日干しし、手作りココアやチョコレートをつくる

人力ベチャとバイクベチャは地域によって乗り入れ規制がある

三輪バイクは今も活躍中

バイク3人乗りは普通の光景


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 防災システム研究所山村武彦プロフィール阪神・淡路大震災東日本大震災その他の災害現地調査写真レポート