関東大震災のちょっといい話
★町を守り抜いた人々  ★希望を与えた震災イチョウ ★100年前の「トモダチ作戦」 ★朝鮮人を救った警察署長

関東大震災100年・写真レポート/山村武彦
関東大震災のちょっといい話/7万人の命を救った浅草公園の人々
現在の金龍山浅草寺・雷門(仁王門)
金龍山浅草寺・仲見世
100年前の金龍山浅草寺・仲見世/1923年9月1日(焼けた仁王門と仲見世)
1923年9月1日(焼けた仲見世通りから観音堂を望む)
観音堂(浅草寺本堂)に向かって右側に五重の塔が見える(現在、五重の塔は左側に移転されている)
観音堂(浅草寺本堂)
大震災後の火災で焼け残った観音堂(浅草寺本堂)前に多数の避難者
観音堂(浅草寺本堂)前の避難者
震災とその火災でもびくともしなかった五重の塔は太平洋戦争末期米軍の空襲で焼失。現在は観音堂に向かって左側に移転再建された
震災時の五重の塔跡に石碑が立っている。その石碑近くにご神木・焦げたいちょうがある(下図)
この「ご神木大銀杏」と現在の五重の塔脇にある「水吹きイチョウ」などが震災時に観音堂や五重の塔を守ったと伝えられている
派出所前のご神木、その向こうにスカイツリーが見える

ご神木のいちょう(幹は空洞になっていて、関東大震災と空襲によるとみられる焦げ跡が残っている)
観音堂に向かって左側に再建された五重の塔・その右脇にあるいちょうの木が「水吹きイチョウ」
「水吹きイチョウ」を下から見上げると、梢の方に焼け焦げた跡が残っている
他の樹木の葉(含水量55%~60%)と比べ、イチョウの葉(73.7%)は含水量が多く火に強い
観音堂の階(きざはし)からから見た「水吹きイチョウ」と五重の塔
こちらから見ると五重塔の左側に見えるのが「水吹きイチョウ」
★水吹きイチョウ
左図は表紙だが、この「大正大震災大火災(大日本雄辯會・講談社発行/大正12年9月27日印刷)」の中、「美談佳話」の項に「浅草観音堂の奇瑞」と題して震災時の浅草観音堂のことが書かれている。
 「浅草方面も本所深川に劣らず、十日前後まで吉原遊郭や吾妻橋下には死體がゴロゴロしてゐた。観音堂は山門五重の塔その他附属物、全く奇跡に焼け残った。観音堂が四方から火の手を受けて全く危険に陥ったのは二日の午前二時頃だった。この時堂の周圍に集まってゐた十五六萬の避難民の処置について象潟署員は頗る迷った。その内に危険は愈々迫って来たので避難民は我れ勝ちに上野方面へ逃れたが、逃げることの出来なかった十萬余の人々は、悉く死を覺悟し、親子兄弟相抱いた儘観音様を念じて無念無想の境域を求めてゐた。天佑は此處にも生命を恵んだ。午前五時頃になると観音堂の境域は全く危険界から脱したのである。その時一命を得た十萬の人々の中には観音様のご利益を説き、堂を蔽う大銀杏から龍吐水のやうに水を吹き出して、本堂が燃えかかる火焔を消してゐたと語り合って不思議の再生を喜ぶものが多い」と

大正12年5月(関東大震災の約4か月前)に撮られた写真
右端の法被姿が五区の消防組の人たち
★関東大震災の奇跡 その3/7万人の命を救った浅草公園の人々
 震災時、浅草馬道町六丁目(現在の台東区花川戸2丁目)の裏長屋に住んでいた上原幸太郎さんは「観音堂が焼け残ったのは観音様のご利益やイチョウなど樹木の助けもあったと思うが、実際は避難した長屋の人たちが協力して観音堂の周りにあった天水桶、貯水池、瓢箪池からバケツリレーして必死で延焼を食い止めたからだ」と言う。(「古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和」第一巻/1981年)。私にはこの話の方がよほど信憑性が高いように思われる。
 浅草寺境内は1873年の太政官布告によって浅草公園となり、周辺部も含めて1884年の区画整理で一区から七区に区割りされた。馬道町は七区に属していた。震災時に浅草公園で消火活動にあたっていた第五消防署浅草公園消防隊への避難民の消防協力のことは、吉村昭著「関東大震災」にも書かれているが、一般人を指揮したのは馬道町五丁目(現在の浅草二丁目)に住む、鳶の頭の馬場斧吉以下8名の組手であった。それにより多くの避難者の命を守り、二天門、被間稲荷、観音堂も焼け残った。
 関東大震災発生時における東京市の消防体制は、警視庁消防部の六消防署とその下に組織・編成された市部消防組によって構成されていた。市部消防組は江戸時代の町火消の流れを汲み、多くが鳶職人など建設・土木業に従事する者たちにより編成されたグループで、構成員たちは予備消防員と呼ばれていた。戦後は編成が十一区に増え江戸消防記念会として出初のはしご乗りなど、今も伝統が受け継がれている。関東大震災発災時における五区の馬場斧吉は十一代も代々馬場斧吉を襲名してきた鳶頭である(江戸消防記念会HPより)。代々名跡を踏襲してきた鳶頭である十一代馬場斧吉氏は元治元年(1864年)6月6日浅草に生まれ、徳川時代以来 土木建築請負業兼鳶職の頭として多数の配下を有し、消防組員統一、技能向上の貢献などでも数回にわたり賞状が贈られている。(東京府消防歴史附名鑑より)
 馬場斧吉氏は震災発災時、四番組組頭であり59歳の働き盛り、五区に迫る大火災に対し手をこまねいていたはずはない。詳しく書かれたものは少ないが、組み手を従え押し寄せる火焔に敢然と立ち向かっていったに違いない。浅草公園に避難してきた長屋や近隣の江戸っ子たちもそれを黙って見てはいまい。きっと頭の指示を受けながらここを先途と懸命の消火活動を行って、約7万人の避難者たちの命を救ったのだ。もし、火を食い止めることができなかったとしたら、本所被服廠跡以上の大惨事に至っていた可能性もあった。その奇跡を起こしたのは、浅草寺やご神木のご利益と相まって焼け残るためのいくつかの奇跡的偶然が味方したからである。
 「大正震災志」上巻(1926年)には、観音堂が焼失を免れた要因として消防隊や人々の消火活動のほか、次のような点を掲げている。
1、延焼方向と風向き
 浅草公園の位置は、地震直後から火災が収まる翌朝まで、終始、延焼火災の風上のほうから風を受ける状況だったので、消火活動に有利な状況だったこと。
2、区画整理で空地
 明治17年(1884年)の区画整理で観音堂より距離50間(約100m)以内の建物を取り払い第六区へ移転させていたこと。
3、建築規制
 前項の区画整理に伴い、一区(観音堂周辺)、二区(仁王門南側)、五区(花屋敷周辺)を防火地帯として、家屋の高さ制限、坪数制限をしていたこと。
4、イチョウをさらに植樹
イチョウは江戸時代からあったが、さらに防火用として植樹していたこと。
5、一部防火造り
 明治18年(1885年)中に雷神門より仁王門に至る両側の寺院を他所へ移転させ、跡地に縦横道を設けて旧仲見世を取り払いレンガ造りに改築していたこと。
6、消防水利があったこと
 明治40年(1907年)ごろに、観音堂の周囲六カ所に水道消火栓を設置し、堂裏には大噴水器や貯水池を設けていたこと。
7、諦めずに、人々が闘い続けたこと
 消防隊、消防組、地域の人々が、大火に怯まず、諦めず、力を合わせて懸命に不条理な大火に立ち向かっていったこと。

★震災から100年、敗戦から78年
 震災から100年、戦災から78年を経てなお、生々しい焦げ跡の幹にまぶしいような新緑の葉をつける逞しい銀杏の樹。下から見上げると、何か神々しささえ感じさせる。内部が空洞化した焼け焦げ跡は、ご神木や水吹きイチョウだけでなく、境内のあちこちのイチョウの木(下の写真など)にも見られる。それらの木々が無言ですっくと立っているだけで、その焼け焦げ跡を勲章として往時の修羅場で戦った雄姿を彷彿とさせる。震災で火焔が迫って来たとき、約7万人(一説には15万人)の命を救うために身命を賭して消火活動を行う人たちと共に、イチョウの木たちも渾身の願いを込め水分を枝葉に漲らせ、身を焼かれつつも決して屈せず、必死で火を防ぎ続けたに違いない。その戦士たちが不条理な災害許さじと今も夏の強い陽射しを跳ね返している。

左奥の建物が浅草12階と呼ばれた高さ52mの凌雲閣、焼け落ちている
凌雲閣は、英国人ウィリアム・K・バルトン氏の設計で1890年に開業、1~8階まで日本初のエレベーターが設置された
関東大震災で12階建てのうち8階以上が崩壊
地震発生当時、屋上展望台付近に12~13名の見物客がいたが、震災の崩壊に巻き込まれる
助かったのは1名だけで、途中の福助足袋の看板にひっかり一命を取りとめたといわれる
震災後ビルは軍隊によって爆破・壊された。跡地は現在パチンコ店となっている
隅田川の向こうに見えるのが両国国技館の屋根、手前が浅草區


第五消防暑浅草公園隊の活躍
 震災から約2年半後の1926年2月28日、内務省社会局から発行された「大正震災志」には浅草周辺の火災について次のように書かれている。
「午後零時、千束町一丁目十二階(凌雲閣)下に発した火は西南風十二米(メートル)に煽られて、主流は千束町二丁目・一丁目・田町一・二丁目を焼き、一瀉千里の勢にて日本堤に向ひ、吉原廓内より発した火と合した。午後五時半には風位西南十五米(メートル)に変じた結果、花屋敷裏・象潟町・馬道町は猛火天を焦がして向かふ所碎破せざるなく、直に大川(隅田川)に向かって東進し、午後八時には聖天町の電車線路に迫った。とかく、するうちに風向は北北西に変じ、火流は漸次南進し、午後十一時浅草公園の北東を掠めて花川戸・山宿を焼盡し、午後十二時には吾妻橋にて蔵前の火と合した。浅草公園仲見世は午後十一時頃、此主流の為に一掃せられて、火翼は傳法院に迫ったのである。十二階下方面の火は千束町一丁目に延び光月町の火と一つになって吉原の火と合し、午後八時風向の変ずるとともに南下し、十一時頃新谷町・芝崎町を一掃して十二階前の萬世館を陥れ、其南方に軒を連ねる活動写真館を初め諸種の見世物場を焼拂ひて、二日午前二時公園の西南境を焼盡して南下した。
 十二階下の発火に対して、第五消防署浅草公園隊は公園内の池水を利用し、倒潰せる十二階見世物場内より侵入して防御に努めたが、延焼力激烈にて、忽ちのうちに防禦線を突破せられ、午後三時半花屋敷裏から五區に延焼したから、位置を公園淡島池に変えて、観音堂北側に延焼するを防いだ。斯る間に風勢は漸く東進したので、公園北側にて之を防禦し、公園内の社祠附属屋舎の一部を拯(すく)った。然るに午後七時になりて六區見世物場の急を慮りて再び瓢箪池に位置して之を防ぎ、又観音堂西側方面に南下する火流に対して破壊消防を敢行した。恰も風勢は一変して火勢は暴威を逞うし、光月町の火は吉原日暮里の火と合して南に向かひ、直ちに芝崎町に迫り、遂に六區の見世物場に進入して萬世館を焼き、隊員が決死の大活動も寸効なく、火焔は次第に延びて有楽館・三友館・オペラ館を順次舐め、二日午前一時には六區を挙げて唯是れ一連の猛火と化し、全く手の下しやうもなきに至ったから、部署を傳法院内の池に変じ、馬道方面より南進する火流に挟撃された傳法院南側の防禦に努めたが、大勢は如何ともすること能わず、僅かに傳法院・観音堂が猛火の裡に傲然として其荘厳を維持したのは、浅草區復興に偉大なる効果を致したのを思ふと、公園隊の大努力を偉なりとせねばならぬ」と。
観音堂が焼失を免れた理由について
 大正震災志には「観音堂が焼失を免れたに就いては種々の原因があるらしい。堂裏の念仏堂其他は焼失したが風向がたびたび変じて観音堂はいつも風上にあったと浅草寺の人達は云っている。念仏堂等が焼失した時などは全く風もなく、焼け亡せたとのことである。浅草區役所の調査に依ると免災原因を左の数項に分けて説いている。
一、観音堂は古来掛茶屋・観世物小屋等周囲に接近しあり。防火上の危険甚だしかりしを以て、明治十七年中、東京府に於いて観音堂より距離五十間以内の建物を取拂ひ、其全部を新開地公園たる第六區へ移転せしめ、尚五十間以外の地にして、一區二區及五區を防火地帯とし、家屋の高さを制限し、二階家及建坪二十五坪以上の建築を許さず、又広場地へ公孫樹(いちょう)を植え付け防火用に供したり、現在公孫樹は皆目通三尺高五十尺以上に生長して防火として適切なるのみならず、夏時は鬱蒼として緑陰をなし、消暑の用に供せられつつあり。(公孫樹は明治十七年の栽植もあらうが、江戸時代から浅草地方には多くあった。(中略)と書かれている。
一、明治十八年中、雷神門より仁王門に至る両側の寺院を象潟町及千束町へ移転せしめ、跡地に縦横道路を設け、舊時の床店を取拂ひ、煉瓦造に改築し、尚明治四十年頃、東京市に於て観音堂周囲に六ヶ所の水道消火栓を設置し、又堂裏の廣場には大噴水器を備付け、之に貯水盤並消暑の料に供したり。震災火當時、境内被害稲荷社は此貯水池を利用しガソリンポンプを以て頻りに防火に努め、為めに其災害を免れ得たるものの如し。又災害當日公園地方へ避難せる十萬人にして、其荷物に飛火したるもの多数ありしを、衆人の協力に因り、右貯水を以て消止め得たりと云う。然し寺中の人々の説に依ると、此貯水は水道途絶とともに間もなく枯渇し、防火には何等の功をなさなかったと云っている。又當時の新聞紙には新門辰五郎一門のものが大に消防に盡力したとあったが、新門の一門は久しく浅草寺の出入りを禁止されているのだと云う。衆説區々ではあるが、以上調査の事實も多少原因をなしているし、又公園隊の努力も興って多かったと思われる。若し観音堂にして焼失したとすれば、被服廠以上の悲惨事が惹起されたことは疑ひもない。安政の震災には五重塔の九輪が傾いた。然し今回の震災には堂の甍一つだも動いたものはなかった。内部に於いては柱等の狂ひもあり、大修繕を要するが、外観では少しも損害した所が見えぬ。震災後間もなく鳩が屋の棟に駢列したところを見ると、誰しも観音の霊異に思ひ及ばざるるものはなかったであろう。(以下略)

★関東大震災と小象の話
 2023年8月で開園170周年を迎える浅草・花やしき。1853年(嘉永6年)に開園された日本最古の遊園地が浅草寺境内の斜め後ろにある。明治に入り浅草寺一帯が浅草公園となったとき、花やしきは縮小され第五区になった。関東大震災時の話として、前述の上原幸太郎さんは体験談の中で「あの時、五重の塔のところに象が一頭いた」と語っている。このことは前述の「大正大震災大火災(大日本雄辯會・講談社発行/大正12年9月27日印刷)」の中、「美談佳話」の項に「猛火の中で小象を救ひ出した花屋敷の園丁」と題して次のように書かれている。
 あの猛火の中で動物を救ひ出した園丁ーそれは浅草花屋敷の福井酉蔵さんである。酉蔵さんは遭難當時、花屋敷の禽獣、丹頂の鶴やペリカン鳥、熊5匹、鹿2匹の他に十一歳になる小象も助け出した。その時を述懐してかう語るのである「子供の象とは云っても何しろ圖體が大きいので大變でした。外の猛獣は皆、危険に瀕した際、萬一飛び出されては大變ですから、獅子でも虎でも?々でも、悉く可哀想ではあったが思い切って拳銃で射殺してしまひ、最後に象にかかりました。その時にはちょうど大きな象の檻を鉄筋混凝土にする工事の最中だったので、屋根へ葭簀(よしず)を被せてありました。
 火が千束町の方から延びて来て花屋敷一圓が焔を上げてゐる時、私は水道にホースをつけて、その水を檻の中に引き、何とかして助けてやらうと一生懸命に水をつかはせていゐたのです。温順しい奴だけに殺すのがいかにも不憫、もうとても駄目だと云う時になるまでもと覺悟をして水で身體を濡らしてやってゐましたが、妙なものですね、永年一緒の所に居り、世話をしてやってゐたから愛情が移って可哀想でなりません。かうなると人間に対すると少しも變らない情愛が働きます。私は自分の弟でも救ふやうな気持ちで必死になってゐたのです。
 私の頭上にももう霰の様に火の粉が降り注ぎます。する内、屋根の葭簀が燃えてポンポン落ちるやうになって来たので、もう見限る外はなくなったのです。それで到頭大きな象は見す見す黒焦げに殺してしまったのです。ほんとに可哀想なことをしました。それ、今度はせめて小象の方なりとも救けてやらうと決心して大工の細工場に入れておいた小象のほうへ駈け出して行くと、もうその時にはどちらを見ても火は紅蓮の舌を吐きつつ襲いかかるという有様で、とても水などやってゐる閑はありません。鎖を解いて戸外へ出してやらうとしました。
 ところが、小象先生、物凄い火を見て、悉く怖気付き身を固く竦めて却却出ようとはしない。危険は刻々に迫って来ます。気が気ではありません。仕方なく引き摺るやうにしてやっと火の中から追い出しましたが、正門を出ると直ぐさま観音の五重塔に繋いで五日間雨ざらしにしておいたのです。死んだ大きな象は62歳の老年で両方とも印度の産。熊や鹿は不思議に助かったといふものは、火事が起こると直ぐ穴倉の中に追い込んでおいたのが、巧く行って丁度燃えるやうな草も無くやっと助かったのです」
花やしき通りに通じる西通り商店街の天井には、大地震の備えや火之要慎の啓発垂れ幕がかかっている

仲見世の裏側を見ると、この仲見世町会が防火対策を徹底していることが良くわかる
全ての建物は鉄筋コンクリート造で燃えやすいものは一切置かないようになっていて、自衛消防隊の訓練も頻繁に行われている
街頭設置消火器などにはこの地域の避難場所(墨田公園、上野公園など)が記載されている

下の写真は松尾芭蕉が「花の雲 鐘は上野か浅草か」と詠んだ「時の鐘」
浅草寺境内にある焼け焦げたイチョウの樹と鐘は、移りゆく時の流れと人の心をいつも静かに見守っている

★関東大震災のちょっといい話
日本の災害史上最悪の犠牲者を出した関東大震災。その一方で奇跡としか思えない出来事やほっとするエピソードが伝えられている。2023年9月1日で関東大震災100周年を迎えるにあたり、災害と教訓を風化させないためにいくつかのエピソードを紹介する。
★町を守り抜いた人々  ★希望を与えた震災イチョウ ★100年前の「トモダチ作戦」 ★朝鮮人を救った警察署長
山村武彦

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