100年前の「トモダチ作戦」 町を守り抜いた「防火守護之地」 7万人を救った浅草公園 朝鮮人300人を救った警察署長

関東大震災のちょっといい話
被災者に生きる希望と勇気を与えた「震災いちょう」
関東大震災100周年・写真レポート/山村武彦

現在の「震災いちょう(上の写真)」/撮影:山村 
100年前の「震災いちょう(下の写真)」は文部省敷地内で黒焦げになっていた
 ★関東大震災の奇跡/被災者に生きる希望と勇気を与えた「震災いちょう」
 東京都千代田区・皇居のお濠に面して小さな緑地「大手濠緑地」がある。大手門から大手濠に沿って走る内堀通りとお濠との間。そこは気象庁前の交差点にも面している。その大手濠緑地に平安遷都に尽力した和気清麻呂(わけのきよまろ)像と、その斜め前に「震災いちょう」が今も青々と葉を茂らせ、枝を張り存在を示すようにすっくと立っていた。対岸に見える皇居の石垣がみせる美しい匠の造形美、それと対照的にこの一角だけは別次元の静謐な空間を醸し出している。いつでも誰でもすべてを受け容れ、慰め、励まし、癒す包摂オーラを放つ震災いちょう。木陰で休んでいた人に聞くと「この樹の下にいるとほっとする、そして心と体が癒される気がする」と話していた。
 「震災いちょう」の幹は周囲約3.6mのしっかりした巨木である。その幹のほぼ1/3に焼け跡が残っている。焼け跡の表面は幹が腐ったり枯れたりするのを防ぐため樹木医によって樹脂加工が施されている。しかし、その幹には4~5cm程度の穴が開いていたり、樹皮がはがされていたりする。それは周辺に住み着いているハシブトカラズの仕業といわれる。人一倍好奇心の強いハシブトカラスが鋭いクチバシで突っついたものと思われる。
 「震災いちょう」の解説版にはこう書かれている「震災いちょう・樹齢150年を超えると思われる公孫樹(いちょう)は、昔の文部省敷地(上の写真、旧竹平町・現在のパレスサイドビルや住友商事ビル、日本電信電話公社一帯)から移植されたものです。大正12年(1923年)の関東大震災によって、一面焼け野原となった東京の都心に奇跡的に生き残り、この樹は当時の人々に復興への希望を与え続けました。復興事業に伴う区画整理で、この樹が切り倒されることになったとき、当時の中央気象台長の岡田武松氏(1874~1958)が復興局長官の清野長太郎(1869~1926)に申し入れたところ、長官もその意義を心から理解し、ここに移植されたといわれる大変由緒ある巨木です。千代田区」
 関東大震災発生直後、皇居近くまで猛火が迫り周囲が焼け野原になる中、「震災いちょう」は必死に耐え忍び黒焦げになりながら生き延びたという。そして、この黒焦げになった「震災いちょう」から翌春新しい芽が吹き出し、新聞で「関東大震災の奇跡」と、その生命力の強さが伝えられた。それを知った人たち、震災で打ちひしがれていた人々は「震災に負けてはいけない」「逆境に立ち向かう」という「震災いちょう」からの強いメッセージを受けとめ、それぞれが生きる勇気と明日への希望を得て帝都復興に立ち上がっていく。
 焼けたいちょうの保存を訴えた岡田武松中央気象台長とその要請を快諾した清野復興局長官の心意気と願いは、100年経た今も褪せることなく震災いちょうに見事に引き継がれている。「震災いちょう」は今日も天に向かって大きく枝葉を広げ、安らぎを与えつつ「大地震はいつ起きてもおかしくはない。今のうちに災害に備えよ」と強く警告を発し続けている。

★関東大震災のちょっといい話
 日本の災害史上最悪の犠牲者を出した関東大震災。その一方で奇跡としか思えない出来事やほっとするエピソードも伝えられている。2023年9月1日で関東大震災100周年を迎えるにあたり、災害と教訓を風化させないためにいくつかのエピソードを紹介する。調査を進めれば進めるほど、奇跡的なことの背景には、ある共通の法則が隠されていると思うようになった。それは「奇跡は一夜にして起こらず、適切な準備・覚悟・行動があってこそ奇跡が起きる」ということである。
関東大震災の概要 100年前のトモダチ作戦 町を守り抜いた人々 7万人を救った浅草公園

★震災イチョウと気象台長
気象庁前の外堀通り、そのお堀側・大手濠緑地 
 
赤く現在地と記されているところが大手濠緑地
大手濠緑地の一角、震災いちょうが今も青々と枝葉を広げ堂々と立っている
左が震災いちょう、右が和気清麻呂像、お濠の向こうが皇居

幹の1/3を占めるその傷跡は、関東大震災の猛火と闘い生き抜いてきた戦士の勲章である
そして、命の大切さ、不条理な困難にめげず生きる勇気の大切さを今も伝えている
 
中央気象台(震災発生時で風力塔の時計が止まっている)
★日本に岡田あり
 「震災いちょう」保存に尽力した岡田武松(左の写真)が関東大震災時の中央気象台長であったことが、直後の地震情報発表や日本の気象観測・地震研究の発展にとって運命的必然だったのではなかろうか。
 1923年、岡田が神戸海洋気象台長兼務で中央気象台(上の写真)長に就任したのは震災の1か月余前の7月であった。
岡田武松に係る関東大震災までの主な出来事
1874年/三宅島噴火・岡田武松 千葉県布佐で由之助、ひさの二男として出生
1875年/政府により東京赤坂で気象観測始まる(通称:東京気象台)。
1883年/気象電報開始。東京気象台で3月から毎日天気図作成配布始まる
1884年/12月から全国的に地震の震度観測を開始。
1887年/東京気象台を中央気象台に改称。
1888年/大日本気象学会発足・地理局気象課設置。
1891年/濃尾地震発生(18歳)。
1893年/福島県吾妻山大噴火・利根川洪水頻発(20歳)。この年は災害多発し、岡田武松はこのころ将来防災に役立つ決意を固めた模様。
1895年/4月、気象事業は内務省から文部省に移管。
1896年/明治三陸地震津波発生(23歳、帝国大学理科大学入学)。
1898年/利根川大洪水・関東地方大水害発生。
1899年/岡田、東京帝大理科大学物理学科卒業、中央気象台就職・予報課勤務(技手)。
1904年/岡田、中央気象台技師、予報課長兼臨時観測課長、日露戦争始まる。
1905年/岡田、日本海戦時の気象予報を担当・「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」と岡田が打電した電文は、日本艦隊に戦勝をもたらせる原動力となった。 日露講和、今村明恒 東京地方大地震襲来説発表。
1906年/岡田、日露戦役の功により勲六等旭日章受章、寺田寅彦氏と出会う。
1910年/岡田、梅雨論を発表、世界に先駆けて海上気象電報規定の実施に努力する。
1912年/岡田、寺田寅彦、大森房吉らとともに気象談話会を組織。
1914年/桜島大噴火、鹿児島測候所長 噴火予知できなかったと非難される。
1916年/岡田、地方に出張するたび、地方測候所職員の冷遇ぶりを見聞、国営移管の決意を固める。
1917年/岡田、海難防止の宿願を果たすため、海洋気象台設置に動く。
1920年/神戸海洋気象台竣工、岡田は初代台長を拝命。
1921年/観測船による海洋気象観測開始(神戸・海洋丸3t)。
1922年/気象放送専門の無線電信所を世界で初めて海洋気象台に創設。
1922年/附属測候技術官養成所設置(のちの気象大学校)。
1923年/岡田、2月中央気象台台長事務扱い命じられる。7月中央気象台長兼神戸海洋気象台長拝命。中央気象台構内官舎に移住。
1923年/ 9月1日関東大震災発生。 
 上の写真は東京帝国大学地震教室で記録された関東大震災の波形。E-W(東西方向の揺れ)の波形が刻まれている。当時はドラムにまいたカーボン紙(煤をぬったもの)を針でひっかく方式で、汚れを防ぎ保存するため記録した紙を急いで外してニスを塗って固めたという。S波の前に約14~16秒のP波が刻まれている。
 左の写真は今村明恒氏が開発した「今村式2倍強震計」。この地震計が上の波形を記録していた。中央気象台のウィーヘルト地震計はD-U(上下動)成分が記録できないタイプであったが、今村式の2倍強震計は3成分を記録することができた。しかし、強い揺れの影響でE-W以外は針が飛んでしまったようである。
 岡田武松が総勢約40名の中央気象台の台長に就任してから1か月余に発生した関東大震災。地震で庁舎が揺れ始めると岡田は書記の坪内を伴い大金庫の傍に身を寄せた。しかし揺れは猛烈で大金庫が転倒。間一髪危地を脱したが庁舎は壁に亀裂を生じ、屋根瓦は1/4ほど落ち、官舎2棟が倒壊し、庁舎内の観測機器等が損壊するが、軽傷者1名のほかは全員無事だった。揺れが収まった後の気象業務の第一は震源地の特定であった。
 地震計室内ではウィーヘルト地震計(左の写真)が横倒しとなり、精工舎の大時計もコンクリートの支柱と一緒に倒れていた。当時地震掛員だった佐藤秀雄は、後に雑誌「気象」のインタビューに答えて次のように語っている「ウィーヘルトの記録紙の初動部分がきれいに出ていたので、急いでニスをかけ震源の発表をしようとしたが、通信途絶で地方からの地震電報が入ってこない。当時のウィーヘルト地震計には上下動観測機能がなかったことが問題でした。その資料だけで茨城県南部にするか、相模方面とするか判断ができない状態でした。このまま地方の被害状況を確認しないで震源の断定をすることには危険があったのです。そのとき、たまたま茨城方面に大被害発生という情報が入ってきました。茨城方面は地震常襲地帯ですから「震源地は茨城県南部」と発表しました。ところが、しばらくしてから相模方面の被害が続々と入って来たのです。もう一度検測しなおしたところ、震源地を相模方面とする確信がついたので、発表を訂正しました。警視庁や報道関係者も駆けつけていましたが、新聞には間に合ってこの間の事情を知っている人はごくわずかだったと思います」
 さらに続けて「本震から24時間で有感地震が356回、次の24時間に289回でした。もっとも余震だって大きいから地震計はスケールアウトしてしまって、私は機械の保守で手が離せませんでした。今道周一先生は予備のクロノメーターを外へ持ち出して、体感観測をやっておられました」と。
 
 結局、岡田武松が台長就任後初めて出した地震情報の第一報は「今日の地震は午前十一時五十八分四十六秒六の発震にて、直ちに烈震となり、地震計は破損したるを以て充分の調査困難なるが、震源は東京の北北東約十七、八里(約70キロ)に在るものの如し。今後余震数十回に及び、次第に鎮静を向かえるが如く、今後大地震の襲来することは万なかるべし。他地方の状況不明なるを以て詳細は後日報告すべし」と発表された。
 発表で注目すべきは「
今後大地震の襲来することは万なかるべし」と断言している点である。本震のあと余震が頻発してエネルギーが小出しにされているので大地震は続発しないと経験則で判断したのだろうが、この時点でもう大地震は発生しないという発表には非常な勇気と度胸が必要である。リスクを取らない官僚が決して渡らない橋である。巷では経験したことのない大揺れ、大火に動揺しで流言が飛び、さらなる大地震続発の噂が駆け巡っていた。人々を落ち着かせ、彼らの不安を少しでも払しょくしようと考え「今後大地震襲来は万なかるべし」と断言したのだ。これは岡田が台長であったからこそできた発表であった。この発表によって浮足立っていた政府関係者もほっと胸をなでおろし、ようやく腰を据えての本格的な非常態勢、緊急対応に取り組んでいく。
 第二報は1日の17時に発表され、「震源は東京より西南約20里(約80キロ)と訂正し、十六時までの余震126回」と報じ、さらに「右の如く余震多発するが故に今後大地震はなかるべし」と再度断言している。こうした発表文は民衆の不安感による事態の悪化を最小限に食い止める力となった。岡田は大災害に際し、発表文に細心の注意を払って決断したものである。
 そのころ、神田や麹町五番町方面からの火災は次第に拡大し、火の粉が盛んに飛んできた。岡田は中央気象台本館正面に陣取り防火の指揮を執った。十六時ごろ、通勤者全員を帰宅させ、官舎居住者や当番者で飛び火の警戒をすることにした。十八時ごろ本館の瓦の落ちた屋根に飛び火するがなんとか消し止めた。二十二時頃に神田如水会館の後ろから黒煙が上がり、北北西の強風にのって多数の火の粉が飛んできた。岡田や職員たちの奮闘も空しくついに中央気象台本館、官舎などが灰燼に帰した。それでも岡田の冷静な指揮により、重要書類や明治以来積み重ねられた貴重な観測資料は焼失を免れ施設も風力塔、図書館、空中電気室、門衛所、官舎1棟が焼け残った。風力塔の大時計の黒い針は十一時五十八分余を指したまま止まっていた。
 
 
 9月1日、東京方面の有線電信はすべて途絶えていた。神戸海洋気象台の無線掛主任の中野一馬は夜中になっても無線室に入ったままどんな電報も聞き逃すまいと受信機にかじりついていた。日本の上空の電波は大混乱となっていた。有線が途絶えた関東地方では電報はすべて附近の海上にいる船舶無線を利用するほかなかったのである。多くの船舶無線局が交信中であるかを確かめることになっている通信規則を無視しているため電波は混乱状態が続いている。横浜や東京の港にある船の通信士は夜空を焦がして燃える大災害の模様を伝えようと懸命に打電していた。緊張しながら傍受をしていた中野の耳に突如次のような電文が飛び込んできた。「ヒナンシャヨウモウフ2000マイスグオクレ」「リサイシャ1500メイアスアサ六ジコウベツクタノム」発信者は東京府知事、神奈川県知事で、宛名は兵庫県知事と神戸市長であった。この電報は何回も繰り返されているが受信完了の信号は出ない。空の迷子になってゐるのだ。人命にかかわる重要事項は放置できないと思った。中野は規程外の送受信は絶対禁止の通達を無視して、ただちに電報を宛先に届け受信完了の信号を送った。救援物資を満載した船が手配され、電報の役目はすべて果たされ中野の応急対応は功を奏した。岡田が世界に先駆けて設置した気象無線設備は意外なところで役立った。通信当局から気象無線取扱い規則違反の詰問書を受け取った中野は緊急やむを得なかった事情を説明した書類を出した。これで一件落着と思っていたら、後に兼務していた神戸海洋気象台長の岡田が「監督不行き届き」として譴責されることになる。上席技師の須田や中野は自分たちの行為で岡田の経歴を汚したと自責の念を痛感していた。いずれ岡田から問責されるものと待っていたが、岡田からは叱責も事情報告要求も一切なかった。細かい規則にこだわり大事を失するような官僚制を極度に嫌っていた岡田としては、中野の対応はむしろ褒めてやりたいぐらいであったであろうが、関係当局への顧慮もあり放っておいたものである。
 
 岡田は震災後の中央気象台復興に全力を挙げると共に、防災の実をあげるために気象事業の整備充実を決意する。まず、精度の優れた新型ウィーヘルト地震計をドイツから大量に購入し全国に配置した。とくに全国20か所の測候所にウィーヘルト地震計、強震計、簡単微動計、ルロア電気時計、ナルダン経線儀、クロノグラフ、引伸器械、小型旋盤、修理工具一式の地震検測設備を設置した。さらに24時間体制で勤務する測候所員の俸給補助として年額1000円を交附した。そして、中央気象台に60mの無線塔を鉄骨を組み合わせて立ち上げ、バラック建ての庁舎には1.2kwの真空菅式送信所を設置した。まだ焼け跡が広がる東京に銀色に輝く鉄塔に張られたアンテナから、波長4000mの純粋持続電波が気象報の第一信を乗せて飛んだ。1925年2月10日のことである。当時1kw以上の真空菅式発振装置を実際に使用したのは日本で初めてであり、夜間の通達距離は豪州から米国西海岸まで届いた。以後毎日数回発信された気象実況報や海上の警報は航海の安全に計り知れない貢献をすることになる。岡田はラジオにもいち早く着目し、当初計画ではこの施設を利用し波長を切り替えてラジオとして天気概況や予報を放送し一般人の役に立てたいと考えていた。しかし、同じころ計画されていた社団法人東京放送局(1926年に社団法人日本放送協会・現NHKに事業譲渡)に譲ることにした。気象台のラジオ放送は実現しなかったが、3月1日からの試験放送、7月12日からの本放送のときから気象通報は組込まれていた。ラジオ試験放送用に気象台が用意していたテスト用語「本日は晴天なり」は全国で用いられるようになった。岡田構想が実現していれば、今の緊急地震速報、警報などがダイレクトにラジオ、テレビ、携帯電話などで迅速に情報伝達できたのではないかと思う。そのほか、岡田は現在気象庁が推進する様々な気象情報や防災情報に関する仕組みの基礎を築いていったのである。そして、岡田が築いた地震観測網は世界最高水準と評された。
 こうした岡田の功績は学会だけでなく、行政機関としても世界中から注目された。当時、気象学などで世界をリードしていた英国王立気象学会は震災の翌年1924年、岡田に「サイモンズ賞」を贈りその功績を称えた。震災から2年目の1925年中央気象台は創立50周年を迎えた。その年、英国王立気象学会名誉会員に招請される。「日本に岡田あり」世界の気象学会や防災関係者が敬意を以てこう言うようになった。岡田の大きな足跡は「震災いちょう」と共に各所で枝を広げ人々を守り続けている。

「震災いちょう」は、今も訪れる人たちを無条件に受け容れ、ひとときの緑陰と安らぎで包んでくれる
撮影/
山村武彦

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