関東大震災のちょっといい話
100年前の「トモダチ作戦」 町を守り抜いた人々 7万人を救った浅草公園 希望与えた震災イチョウ
 朝鮮人300人を救った警察署長

関東大震災 100周年・写真レポート/山村武彦
関東大震災の概要 

 関東大震災からの100年間に日本国内で100人以上の犠牲者を出す大地震が16回発生している。つまり、日本は平均6年に1度は大規模地震に襲われている世界有数の地震多発国である。首都直下地震(30年以内発生確率70%)、南海トラフ地震(30年以内発生確率70~80%)、日本海溝・千島海溝地震(30年以内発生確率70%)など、日本中いつどこで巨大地震が発生しても不思議ではない。100年前の史上最悪地震・関東大震災の教訓を再検証し、次の大規模地震に備えた準備と対策を総点検しなければならない。
★関東大震災(大正関東地震)の概要

★発生:1923年(大正12年)9月1日午前11時58分32秒
★震央:神奈川県足柄上郡松田町付近(諸説あり)
★震源断層:フィリッピン海プレートが相模湾にある海溝(相模トラフ)から関東地方をを載せている陸のプレートの下に潜り込む所で発生した海溝型地震。震源断層は相模湾から東京湾方向へ20度~30度で傾く領域に広がり、その上を関東地方が乗ったブロックが平均して約7mのし上がったと考えられている。すべりは、午前11時58分32秒に白い矢印方向へ松田付近から始まり房総半島南部方向に向かって秒速2.5~3㎞の破壊伝搬速度で広がった。断層すべりに要した時間は30秒~40秒程度とみられている。上盤側の房総半島から三浦半島さらには伊豆半島の付け根にかけて、最大で2m近くも土地が隆起した。一方で丹沢山地を中心に東京湾奥や下盤側の伊豆半島ではやや沈降したところもある。相模湾から伊豆半島にかけて津波が襲来し1000人以上の犠牲者など大きな被害を出したが、東京沿岸では最大1m程度の波高で津波による被害はなかった。
★地震の規模:M7.9
(本震:9月1日11時58分32秒)M7.9
(余震:9月1日12時02分)M7.3
(余震:9月1日12時03分)M7.2
※約5分間に3回の大地震発生、その後断続的に9月5日午前6時までに約700回の余震が続いた。
★死者・行方不明者合計:105,385人
(住宅損壊による犠牲者:11,086人)
(火災による犠牲者:91,781人)
(流失・埋没による犠牲者:1,013人)
(工場などでの犠牲者:1,505人)
★被災者数:約190万人
★焼失家屋:212,353棟
★全半壊家屋:159,005棟
★流失・埋没家屋:1,301棟
★地震直後出火件数:136件
★津波:相模湾沿岸及び房総半島に最大6~12mの波高
★物的損失:45億円(日銀推計)(当時のGDP150億円)
下記データは武村雅之氏著「未曾有の大災害と地震学-関東大震災」より引用
 府県   住家被害棟数(棟)     死者数 (名)(行方不明者数を含む) 
   全半壊  焼失 流失・埋没   合計 住家全壊  火災  流失・埋没  工場等 合計 
神奈川県 89,668  35,412  497  125,577  5,796  25,201  836  1,006  32,838 
東京府  29,073 176,505  205,580  3,546  66,521  314  70,387 
千葉県 19,474  431  71  19,976  1,255  59  32  1,346 
埼玉県  8,845  8,845  315  28  343 
 山梨県 2,802  2,802  20  22 
 静岡県 8,523   731  9,259  150  171  123  444 
 茨城県 483  483 
 長野県 88  88 
 栃木県 0 0
 群馬県 45  45 
 合計 159,005  212,353  1,301  372,659  11,086  91,781  1,013  1,505  105,387 

 災害史上最悪の犠牲者を出した背景には、複数の悪条件が重なっていたことがあげられる。
1、地震発生時刻:午前11時58分という昼食の支度をしている最中(火を使っていた)で、136カ所から同時出火したこと。
2、気象状況:台風が通過し能登半島付近を北上中で、吹き返しの強風が吹き出火した火災が短時間に延焼拡大していったこと。
3、広域大規模地震:建物倒壊による被害が10府県にまたがる広域の大規模地震であって、倒壊家屋から出火し延焼しやすかったこと
4、消防設備:地震の揺れで消火栓(消防水利)が使用不能、消防ポンプ車は東京府で38台しかなかった消防設備の未整備だったこと
5、木造密集地域:東京府下町の人口密度は極めて高く、木造密集地域が多かったこと
6、情報伝達手段:当時電話は一般家庭に普及しておらず、テレビはもちろんラジオ放送も実用化されていなかった。通常の情報取得手段は電報と新聞が主なものであった。しかし、東京にあった新聞社は地震発生により活字ケースなどが倒壊し印刷機能を失っていた。さらに広範囲な火災により東京日日新聞、報知新聞、都新聞を除く新聞社13社は焼失してしまっていた。最も早く復旧した東京日日新聞が夕刊を発行するのは9月5日で、発災後4日かかっている。報道機能を失っただけでなく、通信、交通手段も断絶していたため、正しい情報を伝えることができず、根も葉もないデマ、風評、流言飛語が飛び交い、混乱を招き、無実の朝鮮人等を多数殺戮してしまうなど痛ましく取り返しのつかない事件を誘発していく。「東京(関東)全域が壊滅・水没」「津波、赤城山山麓にまで達する」「政府首脳の全滅」「伊豆諸島の大噴火による消滅」「三浦半島の陥没」などと、被災地以外の新聞が憶測や伝聞に基づいた記事で混乱をさらに助長させた。こうしたデマなどに基づく情報の中には「朝鮮人が暴徒化した」「井戸に毒を入れ、放火して回っている」というものまであり、情報の無い民衆を不安に陥れるだけでなく、虐殺を招く要因ともなった。
7、指揮命令(権力の空白):加藤友三郎内閣総理大臣(62)は、震災の8日前(8月24日・公表は25日)に病気(大腸がん)で急逝していた。宮中席次で内閣総理大臣の次席は外務大臣であったため、皇室儀制令の規定に基づいた慣例によって、大震災発生時は内田康哉外務大臣(58)が内閣総理大臣臨時代理として職務を代行した。しかし、各省庁の施設も損壊被災したため、連絡体制が機能せず。結果としてこうした権力の空白により、指揮命令、情報伝達等が混乱状態にあった。そして、震災翌日(2日)9時過ぎの臨時閣議による「臨時震災救護事務局設置」「非常徴発令・緊急勅令」「戒厳令」が発令されるまで、組織的に適切な情報や対策を打ち出すことができず、結果としてデマや風評に惑わされた自警団等の暴走、罪なき朝鮮人殺戮を防ぐことはできなかった。ちなみに、その2年前に発生した原敬内閣総理大臣暗殺事件のときも外務大臣だった内田康哉が内閣総理大臣臨時代理を務めた。

 戦前の大日本帝国憲法下法令には、法律、勅令、緊急勅令等があった。 法律は帝国議会の協賛を経て、天皇が裁可。国民の権利や義務に関わるものは法律で定められる。 勅令は内閣の責任で発することができる天皇の命令である。 緊急勅令は、緊急の必要があり、帝国議会を開くことができない場合に、法律に代わって発 せられる勅令である。震災時に問題となったのは、この緊急勅令である。震災時に取られた措置には、国民の権利義務に関わるものが多かったにもかかわらず、議会を開会している余裕がなかったからである。なお、緊急勅令は内閣だけでなく、枢密院の審議を経る必要があった(枢密院の会議には国務大臣もメンバー)。


権力の空白により初動対応遅れ、被害拡大、混乱を招いた
 1923年(大正12年)8月24日、加藤友三郎内閣総理大臣が現職のまま死去した。翌25日に内田康哉外務大臣が内閣総理大臣を臨時兼任することになり、26日に内田臨時首相は閣僚の辞表を取りまとめ、摂政官に提出する。28日に山本権兵衛(71)に後継内閣の組閣が命じられた。しかし、組閣は難航したまま、帝都は9月1日午前11地58分の関東大震災に襲われることになる。新内閣未成立のため、内田臨時首相が加藤内閣の閣僚を率い初期の救護活動にあたることになるが、政治の不安定と権力の空白が大規模災害に対する諸対応を後手後手にし混乱を招いた。元来、戦前の日本の権力構造は分立的性格が強かったこともあり、臨時首相では強力なリーダーシップを発揮することが困難だったことと首都が壊滅的被害を受けたことにより、政府関係者も身を守るのに精いっぱいで、大規模災害に呑まれてしまった側面もある。こうした政府の非常対応の遅れは、報道機関や配信・印刷システムが損壊したため、情報の混乱に拍車をかけ被災者たちの不安と動揺を増幅させていった。
地震発生27時間後、ようやく対策本部会議
 当時の中央省庁は、外務省、内務省、大蔵省、陸軍省、海軍省、司法省、文部省、農商務省、逓信省、鉄道省で構成されていた。このうち地方行政・警察・消防・神社・土木・都市計画・衛生・社会政策などの内政一般を司っていたのが内務省だった。このため震災対策については内務省が中心的役割を果たすことになるる。しかし、その内務省や警視庁も本庁舎が全焼するなど甚大被害を受けていた。
 地震発生後、加藤内閣の閣僚たちは首相官邸の庭に集まり、内田臨時首相の下で臨時閣議を開く。被災者救済のための食糧などの物資を調達するため非常徴発令の発布、諸官庁にまたがる救護事務の連絡調整を図る災害害対策本部となる「臨時震災救護事務局」の設置などが協議された。しかし、非常徴発令は緊急勅令で定めることになっていて枢密院の承諾が必要だった。しかし、混乱の中で枢密顧問官を集め会議を開催することは不可能だった。そのとき駆け付けてきた枢密顧問官の伊東巳代治は内田臨時首相に「非常事態であるから内閣の責任で決定すべき」と進言。その間も各地で発生した火災は延焼拡大し続け、消防力を大幅に上回る手の付けられない大火災になっていた。
 結局その日は決まらず翌日の9月2日午前9時の臨時閣議で「非常徴発令・緊急勅令」「臨時震災救護事務局官制」「戒厳令」の交付が決定される。非常徴発令は、被災者救済に必要な食糧、建築資機材、衛生資機材、運搬具やその他の物品又は労務について、内部大臣が必要と認めるときは非常徴発を命じることができる。臨時震災救護事務局には総務部、食糧部、収容設備部、諸材料部、交通部、飲料水部、衛生医療部、警備部、情報部、義援金部、会計経理部の11部が置かれた。そこに内務省を中心とした当初500名、のちに700余名の関係官庁の官僚が、本官在任のまま事務に就くことになった。こうして従来の縦割り行政組織の間を連絡調整する機関をつくり、非常事態に対処する仕組みを整えた。しかし、本省を焼失して移動していた各省への連絡に時間がかかり、事務局の第一回会議が開催されたのは9月2日午後3時からだった。地震発生からすでに27時間が過ぎていた。そして、第2次山本権兵衛内閣が発足するのは9月2日午後5時であった。

九、二 日本電報/電通急ノ一三/九.二.日本電通(1923年9月2日午後3時15分)/出典:日本電報社
★物積み出され惨状目もあてられず(2日午後3時15分着)
 東京市戒厳令 海上ビルディング倒潰 東京全市に亘り戒厳令布かれ/吾通人は一歩と■も東京市内に入/れず食糧品を携帯したるものの外/は之を許さず海上ビルディングも/亦倒潰せり行方不明となるもビルディングのみにて一万人以上あり/東京駅頭は四、五戸を除くの外/全滅す(二日午後三時十五分着)
★関東戒厳司令部
 9月2日に発令された戒厳令の一部(行政戒厳)を適用し、東京衛戍司令官(先任師団長)の森岡守成近衛師団長が戒厳司令官となった。翌9月3日、行政戒厳の実施と大規模兵力の運用を担うに必要として、臨時の上級司令部の位置づけで「関東戒厳司令部」が設置される。戒厳司令官には福田雅太陸軍大将が任じられた。関東戒厳司令部は、東京周辺部隊を出動させ、被災地の治安維持や被災者の救援に従事するとともに、戒厳司令官告諭を発して流言の否定・抑制につとめるが、新聞、電報、電話などの通信が途絶した中で、軍隊や在郷軍人が関わったとされる殺傷事件が多発。甘粕事件(大杉栄殺害事件)の発生に伴い、当事者である甘粕正彦憲兵大尉が9月20日に軍法会議に送致されたことを受け、当日付で福田戒厳司令官が更迭される。1923年11月の行政戒厳の廃止に伴い、関東戒厳司令部は廃止された。その後、東京の警備体制強化のため、常設の東京警備司令部が設置された。

★関東大震災のちょっといい話
① 100年前の「トモダチ作戦」
② 
町を守り抜いた人々
 7万人を救った浅草公園
 被災者に勇気と希望を与えた震災イチョウ
 日本の災害史上最悪の犠牲者を出した関東大震災。その一方で奇跡としか思えない出来事やほっとするエピソードが伝えられている。2023年9月1日で関東大震災から100周年を迎えるにあたり、災害と教訓を風化させないためにいくつかのエピソードを紹介する。調査を進めれば進めるほど、奇跡的なことの背景には、ある共通の法則が隠されていると思うようになった。それは「奇跡は一夜にして起こらず、適切な準備・覚悟・行動があってこそ奇跡が起きる」である。
 山村武彦

国道1号線酒匂川橋落橋(神奈川県小田原市)

 鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)
東海道線馬入川鉄橋(神奈川県平塚市~茅ケ崎市)

炎上する横浜方面
 横浜正金銀行(現神奈川県立近代博物館)

横浜駅
横浜市山下町付近(この瓦礫を埋め立ててできたのが現在の山下公園)
中央気象台の時計が止まった(地震発生の11時58分)
東京・日本電気三田工場
 銀座四丁目
浅草方面(奥の建物は浅草十二階)
隅田川(向こうに見えるのが国技館といわれる)
本所被服廠跡(ここだけで約38000人が死亡)
被服廠跡で亡くなった約38000人分と集められた犠牲者のお骨合計約40000人分
被服廠跡に建てられた震災記念堂

上野駅前広場に避難した人々 
上野公園にはピーク時約50万人もの避難者が押し寄せ、トイレ対策も間に合わず衛生状態が悪化
埼玉・千葉などの農家に汚物を肥料として引き取りを要請するも費用が折り合わず
東京湾沖合まで船を出し廃棄せざるを得なかった
10月に入って赤痢・チフスなどの伝染病が発生した
 焼け落ちた万世橋駅(駅舎は一時遺体置き場になった)

 
 アメリカは大震災の報道が伝わると同時に日本救済のために全米で義捐金募集運動が行われた
日本人移民への排斥運動が激化していたが、当時のクーリッジ大統領の命により
アメリカ赤十字社に「日本救済事務所本部」が設置された
1早ければ1人多く助かる(Minutes Make Lives)」が募金運動の合い言だった
集められた日本救済募金は約5000万ドルを超えた
さらに米国救済団は、麻布の高松宮邸(現港区)にテント病院を建てて、負傷者の救護にあたった
100年前/アメリカの関東大震災トモダチ作戦


 
  アメリカや中国から救助隊や救護隊が駆けつけた


★昭和恐慌の遠因:
 GDP1/3の損失を受け、、政府は、財政面から、復旧・復興経費の予算計上、租税の減免や徴収猶予、財源調達のための国債・外債の発行、大蔵省預金部の資金を活用した公的金融の拡充等の対応を行った。ただし、当時の復旧・復興事業については、基本的には緊縮財政路線を堅持しつつ行われたという点が特徴的である。一方、金融面では、被災企業が振り出した手形(震災手形)の日銀による再割引等の対応がなされた。しかし、これらの政策的対応には、経営不振企業やそこに融資していた銀行の整理を先送りするとともに、旧平価による金本位制復帰に向けた環境を整えたという点で、その後の金融恐慌、昭和恐慌、軍部台頭への道を開くことになる
 大正12(1923)年9 月下旬に震災からの復興のために帝都復興院が設けられたが、その総裁に任命された後藤新平は、同年11 月に予算規模40 億円の「帝都復興計画」(東京・横浜を対象とした都市計画)を打ち出した。財政緊縮路線下では後藤の提案はそのままの形では受け入れられず、同年末に発表された同計画に関する経費の予算規模は、政府案の段階で約6 億円に縮減された。この約6 億円は、大正12(1923)年度以降6 年間の継続費として扱われ、総額のうち初年度分の年割額である約1,500 万円が、大正12(1923)年度の追加予算に計上された。6年間にわたる継続費の総額は、国会で与野党が対立するなかで4.7 億円に減額修正されたものの、その後の更なる追加予算で1 億円強が増額されたことから、最終的には政府案とほぼ同額の予算規模(6億円)が確保された。この帝都復興を主眼とした経費のほかにも、各省の営造物等の復旧に必要な経費(総額約7.1 億円)が、大正13(1924)年度以降10 年間の継続費として扱われ、総額のうち初年度分の年割額である約1.2 億円が、大正13(1924)年度の追加予算に計上された。震災復興に関連した経費が巨額に上ったことから、我が国の財政状況は急速に悪化していく。政府は、復興対策のための財源不足分は国債(「震災善後公債」10)で賄うことにした上で、新規の国債発行は震災対策関係のみに限定するとともに、一般会計における既定の国債発行計画を当分中止するとの方針を示した。
 「震災善後公債」については、帝都復興対策の予算(当初は、大正12(1923)年度以降の6 年間にわたる継続費として総額で約4.7 億円とされ、それに見合った金額として約4.7 億円の発行が法定された。そして、新規国債の発行が増加した結果、震災発生直前の大正11(1922)年度に約1.1 億円であった国債費は、大正13(1924)年度にはその2 倍近くの約1.9 億円にまで膨らむこととなった。加えて、政府は約5.5 億円の外債(「震災外債」)を発行した。その背景には、被災地の復興を進めるために外国資材の輸入が必要であったものの、当時は我が国が保有する正貨(金本位制の裏付けとなる金貨や金地金等の資産)が減少傾向に陥っていたことから、政府が国外から新たな借入れを行わなければならないという事情があった。ただし、国内産業の被災状況が深刻さを極めるなか、この外債の発行条件は我が国にとって不利なものとなり、その利回りは8%と、日露戦争当時に日本が発行した外債の利回り(5%強~6%)を上回った。このため、当時発行された外債は「国辱公債」であるとの批判を受けた。

 
関東大震災のちょっといい話
100年前の「トモダチ作戦」 町を守り抜いた人々 7万人を救った浅草公園 希望与えた震災イチョウ
 朝鮮人300人を救った警察署長


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