東日本大震災阪神・淡路大震災防災システム研究所現地調査写真レポート

ネパール地震(Nepal EarthQuake 2015)
現地調査(2015.4.30~5.4)・写真レポートその2
ネパールで見た「チョク」と「互近助」
撮影・文:山村武彦
ネパールで見た中庭と互近助
〇バクタプル
  ネパール連邦民主共和国の行政区画は5つの開発区域(development region )の下に、14の(zone)に分かれ、さらにその下に75の(district)があり、郡には郡庁が置かれ行政区画となってる。ちなみに首都カトマンズは中部開発区域に属し、バグマティ県カトマンズ郡カトマンズ市となり、バクタプル郡も同じバグマティ県に属するバクタプル市。中部開発区域に分類されるカトマンズとバクタプルは同じカトマンズ盆地エリア。18世紀ごろまで「ネパール」とは、カトマンズ盆地を指す言葉であり、ネワール語を母国語とする人たちの居住地のことであった。
 カトマンズ市内から東に向かい国際空港を過ぎ、日本のJICAが2011年につくったARANICA HIGH WAYを約12㎞行ったところに世界遺産の街バクタプルがある。遠くヒマラヤが光るこのまちは、15世紀から16世紀にかけ一時カトマンズ全域の王朝首都がおかれた古都で、日本での京都になぞらえられる落ち着いた歴史と文化の街。周辺を含め人口は約22万人、周囲の田園地帯の真ん中の小高い丘の上にあるのが王宮(ダルバール)。その旧王宮広場(ダルバール広場)を中心につくられたまちがバクタプルである。
 マッラ王朝時代に建てられた王宮の入り口のゴールデン・ゲート、その左側に国立美術館(National Art Gallery)、右側には17世紀から18世紀にかけてつくられた55窓の宮殿。宮殿の窓や軒には重厚な木彫りが施されネワール建築の傑作ともいわれている。カトマンズ、パタン、バクタプルはマッラ王国時代に殷賑を極めた都だが、その3都の中で最も古い街並みが残されているのがバクタプル。ダルバール広場、トゥマディー広場、タチュパル広場まで続くバザールを中心に路地が迷路のように広がっている。街中を走る車は少なく、地震前はのんびり散策する観光客が訪れる場所であった。ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画「リトル・ブッダ」で、出家前のシッダールタ王子が過ごす都の場面はこのバクタプルで撮影されている。
〇共同利用空間「チョク」という中庭文化
 バクタプルはネパールの先住民族であるネワール族の街で、今でもバクタプルの80%はネワール人。ネワール人は伝統、文化、礼儀を重んじる温厚な人たちが多い。とくに注目したのは伝統的なネワール建築(ネワール様式ともいう)。ここは古い街なのでそれが多く残されていた。建物は主にレンガと木材を組み合わせたもので、多くが3階から4階建で木とレンガを積み、床、窓、出入り口などに木製枠を配置した造り。大きく広げた軒屋根を斜めの木材で支えたり、回廊式にして上層階の屋根を支持する美しい設計となっていて、地震対策にも配慮されているとのこと。とくに窓や出入り口にはめ込まれた木枠が目を引く。欧米のレンガ積み建築は、窓や出入り口は弧を描くようにアーチ状にしてレンガの重力を分散しているが、ネワール様式ではそこをくぎを使わず異なる木材を寄木のように組み合わせ強度を持たせている。
 中でも私が注目したのは「チョク」。長屋のように造られた建物を4つ組合せ「カタカナのロの字型」に建物がレイアウトされているため、必然的にロの字型の真ん中に中庭ができる。ネワール建築ではこの中庭をネパール語で「チョク・Choka」、ネワール語で「ツカ・Chuka」と呼ぶ(国語がネパール語なので「チョク」と呼ぶ)。2007年に初めて発行された建築基準法では、①ロの字になるように全面を建物で囲まれた中庭を「ビティリ・チョク/Bhitri choka」(内側中庭)、②中庭を完全に囲んでおらず一面がオープンなものを「バヒリ・チョク/Bahiri Choka」(外側中庭)と定義している。ビティリ・チョクは建物で囲まれた中庭をいい、バヒリ・チョクは広場などに用いられる。世界遺産のチョクとその周辺景観建物は許可なく増改築や現状変更を認めないとされている。
 もともとチョクは、王宮やネワール族仏教徒の僧院などでもよくみられる独特のネワール建築様式。僧院に限らず旧街区では宗教的背景もあって仏像が祀られているチョクや、カースト的背景もあって生活の中心的役割を果たす井戸を真ん中に配置したチョクもある。そのほかチョクには、日本の神楽殿のような集会場のあるチョクもあった。ネワール人に聞くと、ダルバール広場そのものが王宮のチョクだと言う。
 1934年のビハール・ネパール地震(M8.1)で、カトマンズ周辺でも歴史的建築物を含め多数の建物が倒壊し多くの犠牲者を出した。震源地は遠く離れたインドとの国境にもかかわらず、カトマンズ盆地の建物の20%以上が倒壊し40%以上が半壊した。震災後、カトマンズの歴史的町の景観は見る影もなく、約60万人がホームレスになったと言われている。その後幾多の政治混乱を経て2008年、「ネパール王国」から「ネパール連邦民主共和国」に変わる。しかし、その後も政党間の権力争いが続き、新憲法制定作業が進められず不安定な政治状況が続いている。2011年の国勢調査でネパール人口は約2,600万人。3都市の人口密度はカトマンズ市が1位(20,289人/㎢)で、2位がパタン市(14,966人/㎢)、3位バクタプル市(12,753/㎢)というように、東京区部(14,727/㎢)と同じようにカトマンズ盆地への一極集中が加速。民主化後の流入人口増加により住宅不足が進行したため、郊外の共同住宅開発が進んでいく。1972年から次々にユネスコ世界遺産に登録されていくなかで、世界遺産以外の歴史的建造物を保護する景観規制や都市計画が不十分であったことから、2003年にユネスコはカトマンズ盆地を「危機世界遺産リスト」に登録することになるが、その後解除される。
 都市化が進むにつれネワール様式やチョクは少なくなっていくが、最近はネワール建築の街並みを復原させようとする活動も始まっていると聞く。ネワール人にとってチョクという「場」は単なるスペース・空間という意味ではなく、生活、情報共有、コミュニティ、精神的ゆとりに欠かせない存在でもある。
 このチョク、中庭文化こそ中庭に面した住民同士見守り助け合う心の絆となっている。それぞれの地域にそれぞれ形態の異なるチョクがありチョクに面した共同体(コミュニティ)がある。苦難や試練に見舞われても、中庭(チョク)を囲む共同体がある限り、この地にとどまり助け合って一所懸命に生きていく。厳しい自然環境、繰り返される災害に「貧しくても、決して心まで貧しくさせないように、皆が助け合う仕組み」チョクは、この地で生き抜くために先人たちが考え抜いた究極の知恵だったのではなかろうか。
〇互近助でレンガリレーと炊出し支援
 多数の死者を出したバクタプルは世界遺産の街である。王宮入り口附近に「ヘリテージ」と記された世界遺産の石碑があり、その横にはテントが立っていた
。ここはビャッシーコミュニティの災害対策本部テント(下の写真)。テント内やテント前には衣服、寝具、水、食糧、医薬品などが積まれていた。ビャッシーコミュニティには約3,500人が住んでいる。リーダーのムケスさん(32歳・Mukesh)たちに話を聞いた。地震発生後、みんな外へ飛び出したが、その直後に近くにいるもの同士安否確認して、姿の見えない人の家や倒壊家屋を掘り返し、皆が並んで「レンガリレー」で40人救助したが9人は助からなかったという。救助活動の中心になったのはビャッシー若者チームで、ほとんどがお祭りの山車や神輿を担ぐ神輿会メンバーだった。住人3500人のうち約1500人が40歳定年の神輿会に加入している。このコミュニティの特徴は私が提唱している近くで助け合う「近助」を実践している。政府の救援物資を待つのではなく、救援被災を免れた家の人たちが家にある余分な衣服、毛布、水、食糧、野菜、鍋、釜、などを持ち寄っている。持ち寄った人と品目がドネーション名簿に記録され、それは長く保存される。そして被災者たちに役員が公平に分配する。同じ地域で同じコミュニティ、同じチョクで暮らすものは運命共同体という位置づけであろう。自然の脅威の前であっても、チョクが無力感を感じさせない役割を果たしている。
ネワール建築(様式)/バクタプル
精巧な彫刻が施された木材がレンガを支える/バクタプル
 
倒壊したネワール建築物のほとんどが100年前後かそれ以上の古い建造物
 チョク(中庭)の入り口(ここには被災者が165人います、助けが必要です)
このチョク(中庭)は、真ん中に仏塔が鎮座している 

バクタプル・ビャッシーコミュニティ/災害対策本部

周囲の人が衣類の寄付(救援物資を待たず、近くで助け合う習慣)

ビャッシーコミュニテイのドネーション名簿(寄付記録帖)

古くから続く祭りには神輿や山車が繰り出す
各コミュニティごとにある神輿会の若者たちが発災時に、救出救護・炊出しに大活躍

 災害後の清掃・消毒する若者たち(ビャッシーコミュニテイ)

 井戸はチョクとコミュニティの共同財産
(飲料水にはならないが、トイレなどの雑排水として使用する)
このTULACHHEN YUWA PARIWARというコミュニティ/食材などは皆で持ち寄る
1日2食の炊き出しをしている PARIWARとは家族という意味
TULACHHEN YUWA PARIWAR の炊き出し
TULACHHEN YUWA PARIWARは50軒・約350人が住んでいるが
炊出しは、周辺被災者分を含めて毎回1500人分作っている
ヒンデゥーの輪廻転生の教えもあるのかもしれないが、来るもの拒まず、去る者追わず
どこの誰にでも食事のある限り提供している。食材は周辺の人が持ち寄る。
TULACHHEN YUWA PARIWAR のみなさん
災害直後と災害後の助け合いをしている/私にも食事をしていくようにと強く勧めてくれる
公共トイレは一カ所だが、近くの家の人がトイレ使用を呼掛けている。これこそ「近助の実践

中庭の救護所
上の二人はINDRAYANI SAROKAR コミュニティのリーダー 
下の写真はチョク(中庭)で炊き出しをし、災害後は火を通したものしか住民に食べさせない
住民だけでなく、神様が救ってくれた命は皆同じように大切、病気にさせることはできないとのこと
INDRAYANI SAROKAR コミュニティの人々が持ち寄った農作物
豊富な食材で栄養バランスを考えた炊き出しをしている
みんなが助け合う場がある限り「希望」は生まれても「絶望」はない
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ネパール地震写真レポートその3/地震国でなぜレンガ建て?
ネパール地震写真レポートその4/カトマンズ・バクタプル周辺風景
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