平成16年新潟県中越地震(2004.10.23)平成19年新潟県中越沖地震新潟地震50周年


新潟地震

県営住宅の倒壊(渡邊馨一郎氏撮影) 昭和大橋落下(渡邊馨一郎氏撮影)

 昭和39年(1964年)6月16日、午後1時02分、新潟県の粟島南方沖40Kmを震源とするM 7.5の地震が発生し、震源に近い新潟周辺は震度6の烈震に襲われた。この地震で新潟、秋田、山形の各県を中心に、死者29名、負傷者510名、全壊家屋3,557戸(うち160戸全焼)、半壊家屋1万2237戸、浸水15,298戸などの大きな被害を出した。その他24,000余箇所の通信施設損壊や船舶・道路、鉄道の被害も多かった。仙台管区気象台は13:15分、東北地方の日本海沿岸と陸奥湾に津波注意報を発令。新潟県沿岸の津波高は4mに達し、信濃川を遡り一部で氾濫し市内を水浸しにした。また、震源付近の粟島が約1m隆起した。
 新潟市内では国体に合わせて造られた昭和大橋の崩壊、鉄筋コンクリートの県営住宅倒壊、昭和石油新潟製油所のタンク火災などが注目を浴びた。昭和石油のタンク火災はスロッシング現象によるもので、火災は7月1日17時に鎮火するまで黒煙が空を覆い、余震に怯える市民を一層不安に陥れるとともに、周囲の民家160戸を類焼させた。この地震による火災は9件発生したが、昭和石油以外は大事には至らなかった。
 地震発生5日前に新潟国体が終了したばかりで、もし開会中であったらさらに大混乱になったことが予想された。この地震では、各地で顕著な液状化現象がみられ、鉄筋コンクリート造りの基礎杭やコンクリートの耐震性不備が露呈し、建築基準法改正、地震防災対策に教訓を与えた。新潟地震は1971年の建築基準法改正で耐震基準強化や日本の防災対策を促進する契機となった。


新潟地震が私の原点
 1964年、その年の10月に東京オリンピックが開催されるために、道路、新幹線などの建設ラッシュで全国がオリンピック景気に沸いていました。6月6日〜10日まで開催されていた弟19回春季国民体育大会(新潟国体)は、オリンピックの前夜祭としても盛り上がりを見せていました。その年、私は21歳で東京にいました。昼過ぎにラジオで新潟地震の発生を知ったのです。その時、友人が新潟に帰省中だったのを思い出して安否を確認しようと電話をかけたのですがつながりませんでした。ニュースでは新潟市内で大きな被害が出ていることを伝えています。そこで、翌日、上野発の信越本線に乗り新潟を目指します。背負ったリュックには缶詰が入っていました。そのころは被災地で何が必要かなどということもまったくわかっていませんでした。途中新津駅で電車は停まり、その後はヒッチハイクのようにトラックなどに便乗させてもらい市内に入ったのです。そこで見たのは、昭和石油のタンクから上がる煙で真っ黒になった空、液状化か信濃川津波遡上のためかそこいらじゅう水浸しでした。ようやくたどり着いた友人の家は瓦が落ち、窓ガラスが少し割れていましたが友人は無事でした。
 その後、せっかく来たのだからと炊き出しや水運びの手伝いをしながら、合間に被災状況を見て回わりました。たった十数秒の地震で街や生活が無残に破壊された惨状にショックを受けました。東京へ戻って調べてみると、日本は平均5年〜6年に一度は大地震に見舞われる世界有数の地震国だということを知ったのです。そして、災害が発生するたびに大騒ぎするが、しばらくするとその教訓を忘れ、また災害で大きな被害を出すという繰り返しのように思われました。
 それまで、将来何を目的として生きるか明確な指標をもっていなかった私は、そのとき漠然とでしたが「安全」をテーマに仕事をしていこうと思ったのです。当時「防災」という言葉や「危機管理」などという言葉さえありませんでした。防災や災害対策を教えてくれるところを捜しましたが、地球物理などの地震研究は行われていたのですが、防災対策を学べるところはほとんどなかったように思います。それなら現場から学ぶしかないと考え、以来災害現地調査を行うようになります。一方で生活を維持するために防災用品(非常電源)の研究開発を手掛けたりして糊口をしのいできました。
 1995年1月17日の阪神・淡路大震災のときは、日米都市防災会議に出席するため前夜から大阪にいて、2時間後に被災地に入ったのです。それは直下地震に襲われた悪夢のような光景でした。あちこちで火災やガス爆発、着の身着のままで恐怖に怯える人々。見渡す限り崩壊した街。救助活動などを手伝いながら、涙が出て仕方がありませんでした。さらに阪神・淡路大震災から16年目、東日本大震災(2011年・M9.0)という広域複合大災害に襲われ、甚大な犠牲と被害を出してしまいます。
 永年防災対策の重要性を訴えてきた自分の無力さが腹立たしく無念でなりませんでした。災害のつど思うのは、防災対策としてハードもソフトも大切ですが、より重要なのはひとりひとりの防災力・危機管理対応力を上げること、つまり防災民度の向上にあるとことを痛感してきました。「災害そのものを防げないまでも準備をすれば被害を少なくすることができる」「自分や家族は自分が守り、地域や企業は自分たちが守る」という視点をライフワークとしています。そして、少子高齢化が進み、体の不自由な人たちなど「災害時要援護者」(災害時要配慮者)を助けることができるのは近くにいる人でしかないと考えるようになります。そこで近くの人が近くの人を助ける「近助の精神」と「防災隣組」の推進を提唱し、いま、全国を回り「自助」「近助」「共助」の大切さを訴えています。
 新潟地震を契機として阪神・淡路大震災、東日本大震災が防災の原点と認識し、皆様のご指導ご教示を得ながら今後も体力の続く限り、防災意識向上微力を尽くしていく所存です。
山村武彦



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