1960年チリ地震津波の知識と教訓スマトラ沖地震津波津波の注意標識稲むらの火奥尻島の津波防災システム研究所山村武彦

1771年・八重山地震・明和の大津波(津波跡現地調査/文・写真:山村武彦)

★筆者(写真左下)身長175pから推定し高さ7.5〜8mほどの津波大石(つなみうふいし・石垣島・大浜崎原公園・推定重量700トン)
 津波によって海中にあったおびただしい数の大石が陸に打ち上げられている。その最大のものが大浜崎原公園の西北隅にある津波大石で、表面にはみどり石、テーブルサンゴなどサンゴ礁に寄生生物跡が残されている。明和大津波で打ち上げられたものと伝承されている。
★宮良湾内やリーフに打ち上げられたおびただしい津波石(上)と、津波が遡った宮良川河口付近(下)

★宮良川に架かる宮良橋北東にある「ちびすく石」と名付けられている津波石(写真中央)宮良川を遡った津波によって打ち上げられたと伝えられる

 
★新空港滑走路予定地近くを流れる轟川(白保地区と宮良地区の間にある)も津波が遡り大きな津波石を約4Km以上の地点まで打ち上げたといわれる

★日本最悪・最大85.4m(弐拾八丈弐尺)の津波
 1771年4月24日(明和8年3月10日)午前8時ごろ、沖縄県石垣島南東沖約40Km(北緯24.0度、東経124.3度)を震源とするマグニチュード7.4の地震が発生。地震の揺れによる被害は一部の建物や石垣が崩れるなどの被害はあったが比較的軽微であった。しかし、この地震によって大きな被害を引き起こしたのは最大28丈2尺(85.4m・石垣島)の大津波であった。津波は三波まで襲来し第二波が一番大きかったと伝えられている。八重山群島(死者行方不明9,313人)、宮古群島(死者行方不明2,548人)などで死者行方不明者合計11,861人もの琉球史上最悪の大惨事に発展する。
 石垣島では真栄里・大浜・宮良・白保を含む八村の大部分が流失・全壊し、石垣島の津波前人口17,394名が津波後は8,910名と、じつに人口の48%が死亡または行方不明となった。大浜村も当時の津波前の人口が男670名、女732名の計1,402名だったが、津波後に死亡行方不明者を差し引いた生存者数は、男98名、女17名の計115名で、91.8%の人口を失い人口は12分の1に減少するという壊滅的被害となった。
 また、津波に流された田畑は農作物が育たず、津波で生き残った人たちにさらなる試練(飢饉、疫病など)が襲いかかり、1771年からの100年間にこの地域の人口はさらに7000人以上も減少する。明和大津波、この悪夢が与えた直接間接的影響から解き放たれるまでに約100年を要するほどの大災害であり、地域住民の困窮は筆舌に尽くしがたいものがあったと推定される。
 明和の大津波災害及び被害についての記録で主なものは、当時薩摩藩に服した琉球王国支配下にあった石垣島・八重山政庁蔵元(地域役所)から首里王府に提出された「大波之時各村之形行書」(おおなみのときかくむらのなりゆきしょ)と「大波揚候次第」(おおなみあがりそうろうしだい)の二つである。津波高さ、被害者数などもこれらの資料を参考にした)

★M7.4で大津波を引き起こした?そのプロセス及びその震源地は?
 気象庁や理科年表などによればこの地震の震源地は石垣島南東約40Km(北緯24.0度、東経124.3度)の断層が動いたとされている。ただM7.4の地震でこれほどまでの大津波が発生するということにはいくつかの疑問もあってか、地震後に海底で大規模な地滑りなどが発生した複合津波ではないかと推定されてきた。しかし、これまでの海底調査では石垣島南東40Km・北緯24.0度、東経124.3度付近で断層が動いた明確な形跡や大規模な海底地すべりの痕跡は未だ見つかっていない。(琉球大学理学部の中村衛先生は、石垣島南東沖約40Kmの断層ではなく、もっと沖合の海溝型のM8クラスの巨大地震だったという研究を発表されている)
 八重山地震・明和の大津波を引き起こしたのがこれまで通説とされてきたM7.4のエネルギーだとすれば、震源断層の長さは一般的に約40Km程度であり、断層のずれだけでこれほどの大津波を引き起こすことは考えられない。また、海底地すべりが同時に発生したとすれば極めて大規模な地滑りであるはずで、海底調査で200年前程度の変動痕跡は判明していなければならない。しかし、海溝型でM8クラスの巨大地震だったとすれば震源断層の長さは150Km前後と推定され巨大津波が発生する可能性は高く、今後の研究成果が期待されている。


 ★明和大津波が襲来した4月24日に「明和大津波遭難者慰霊之塔」で慰霊祭が開かれる。慰霊之塔の前の碑文

★宮良湾(中央)と、その向こう(東側)が白保嘉崎浜。津波は主に東側から襲ってきたと伝承・証言がある

 激しい地震の揺れのあと、海上に雷鳴のような轟音が聞こえたといわれている。その後「外の瀬まで潮干き」「水平線まで海はカラカラになっているように見えた」(大浜村での言い伝え)、「地震があって不時に退潮し、岩礁砂浜が遠くまで露われた」(宮古島の記録)とされるように、当日8時ごろは最干潮時刻であったが地震による海底異変によって津波前に異常な引き波があったものと思われる。そして、地震発生後数分から数十分後巨大な津波が押し寄せてくる。陸地に駆け上った津波高さは最大85.4mで、これは日本最大の津波高さとして記録されている。ただ、この津波高さは潮位としての波高ではなく、現地で「潮上がり」と呼ぶように津波が陸地を駆け上った(遡上)最大高さを示しているものと思われる。
★厳しい自然、苛烈な支配体制、哀切の歴史
 今は八重山地震津波(明和の大津波)と呼ばれるが、当時石垣島は日本の暦を使っておらず1771年は当時薩摩藩に服していたとはいえ琉球暦が使われていた。1771年は琉球暦の乾隆(けんりゅう)36年卯歳であった。牧野清氏が昭和43年(1968年)に著した「八重山の明和大津波」で日本暦に直されてから一般的に明和の大津波と呼ばれるようになったといわれる。それまで地元では乾隆大津波又は八重山大津波と呼ばれていたようだ。この著著は沖縄返還(1972年)前の出版だったため、奥書に定価2弗50仙(2ドル50セント)と書かれている。石垣島を含む八重山地方は台風、津波、マラリアなどの厳しい自然脅威だけでなく、琉球王国支配下(1500年〜)、島津藩支配下(1609年〜)、苛烈な人頭税(1637年)、島津藩から沖縄県へ(1879年〜)、大東亜戦争(1941年〜)、敗戦(1945年)、米軍統治(1946年〜)、本土復帰(1972年)など、ドラスティックに入れ替わる支配体制に抑圧・翻弄され続けてきた哀切の歴史が奥書や津波名にもにじみ出ている。


★「大波之時各村之形行書」(おおなみのときかくむらのなりゆきしょ)に記録された津波波高(潮上がり・陸地に到達した高さと推定)
★津波前の人口、津波による死者(行方不明者含む)数、死亡率
村名 潮上がり高(旧尺貫法) メートル換算 津波前の人口  死者(行方不明)数   死亡(行方不明)率
宮良村 28丈2尺 85.4m 1,221人   1,050人 85.9% 
白保村 19丈8尺 60.0m 1,574人   1,546人 98.2% 
安良村 18丈6尺3寸 56.4m 482人  461人   95.6%
野原崎 15丈4尺 46.7m      ー
大浜村 14丈5尺8寸 44.2m  1,402人 1,287人  91.8% 
嘉良岳 13丈1尺5寸 39.8m ー  ー  ー 
伊原間村 10丈8尺 32.7m  720人 625人  86.8% 
玉取崎 10丈6尺 32.1m  ー  ー ー 
平得村 8丈6尺 26.0m  1,178人 560人  47.5% 
真栄里村 6丈4尺 19.4m  1,173人 908人  77.4% 
登野城村 4条3寸 12.2m 1,141人  624人  54.7% 
仲興銘村 3丈5尺4寸 10.7m 283人  283人  100% 
桃里村 3丈2尺 9.7m  888人 199人  22% 
大川村 3丈4寸 9.2m  1,290人  412人 31.9% 
石垣村 3丈4寸 9.2m  1,162人  311人 26.8% 
富崎野 2丈9尺8寸 9.0m ー  ー 
新川村 2丈7尺 8.2m  1、091人 213人  19.5% 
 
石垣島   17,349人  8,439人 48.6%
西表島  4,596人   324人  0.07%
波照間島   1,528人  14人 0.9% 
竹富島 1,313人   27人  2.0%
黒島 1,195人   293人  4.4%
 与那国島  972人  0人 0% 
 小浜島 900人  9人  1.0% 
 新城島 554人  205人  37% 
 八重山群島合計  28,407人  9,311人  32.7% 

桃林寺に隣接する権現堂
★28丈2尺(85.4m)の信頼性
 「大波之時各村之形行書」(おおなみのときかくむらのなりゆきしょ)で津波の最大高さは宮良村(現在の石垣市宮良)の28丈2尺と記されている。しかし、その場所について具体的な位置は示されていな。そのため、未だに場所は特定されておらず疑念や諸説を招くことになる。中には当時の技術で正確な高低測量は期待できず、陸遡上としても最大高さ数値の確度は低いのではないかとか、「白髪三千丈」の類で非常に大きな津波だったことを表すための比喩ではないかなど、記録の真実性を疑問視するむきもあったようだ。
 しかし、当時の測量技術については石垣市の桃林寺と権現堂の建立記録に、慶長14年(1609年)琉球を征服した薩摩藩は直ちに全琉球の測量を実施し、慶長16年(1611年)には八重山に測量隊が派遣されたという記述(慶長の検地)がある。「丈量竿を使って検地帳に記載した」と書かれている。この測量隊が時の琉球王(尚寧王)に対し八重山に社寺建立を進言した結果、慶長19年(1614年)に現在の桃林寺と権現堂が創建されたとされている。その後正保4年(1648年)にも薩摩の測量隊が来島したという記録もある。
 薩摩の測量隊といえども当時は現代からみれば初歩的な測量技術でしかなかったと思われるが、測量隊には常に琉球の測量役人も随行したとされるので、蔵元の役人の中にはこうした技術を持ったものが居ても不思議ではない。過去40年以上津波被災地の調査をしてきて共通していたことは、津波の遡上た地域は樹木や草地が塩害・潮やけで枯れてしまっていて鮮明に判別できたことである。そのため津波の遡上高さは第三者が客観的に後からでも確認することは比較的容易であった。明和の大津波当時も応急対応後、蔵元役人が現地を回り海面を基準にして高低測量を行い○丈○尺と報告したものではないか、根拠のない数値を報告したとは考えにくい。私は、王府に報告された「大波之時各村之形行書」に書かれた28丈2尺という数値はおおむね信頼できると思われる。



★28丈2尺(85.4m)を記録した場所は?
 「八重山の明和大津波」(牧野清著)には「宮良部落の北方ゆるい坂でおよそ2キロ、白保部落から約3キロの地点に海抜88・7mという高台地があり、現在の小字名は牧中である。直進して嘉崎浜(白保村と宮良村境界付近の古い呼び名)から打ち上げた波は猛然として、この台地をかけ上がり、台地の頂上に近く85.4mのところに達したものと思われる。(中略)牧中は昔は牧場だったが、現在はほとんどパイン畑になっており、その一番高いところは戦時中あったという海軍の見張り所の跡が残っている。」と書かれている。そこで私も牧野氏のいう「牧中のパイン畑」と思われる高台周辺を回ってみた。しかし、震源地〜嘉崎浜〜牧中まで津波が一直線に駆け上ったのではという仮説には多少の疑問を感じる。
 それより、東方(白保浜方面)から西方(宮良方面)に押し寄せた波と、轟川を遡ってきた津波とが合流し斜面を回り込むように横断したという次に掲げる目撃伝承のほうにより説得性があるように思われた。

 明和大津波に遭遇したとき、宮良の高台で農作業に当たっていて助かった先祖(運天筑登之氏)により代々語り継がれてきた大津波体験目撃談。それを継承されていた父親(大久宣佐氏)から共に現場を回って伝承された話を、宮良の小濱勝義氏(77歳・大久から小濱に改姓・下の写真))に聞いた。筆者が石垣島へ調査に伺ったとき(平成22年4月28日)、降りしきる雨の中にもかかわらず小濱氏は高台まで同行して下さり、父君から聞いたという津波当日の生々しい伝承話を聞かせて下さった。
小濱勝義氏
 以下は小濱氏が書かれた伝承の概要「明和大津波襲来の日、運天家の先祖は早朝野良に出て、牛馬の朝つなぎをすませ、畑仕事に精を出していた。その時大波が来て宮良村を飲み込む様子を両の目でしっかりと見てしまった。水がひいて急ぎ村へ戻ってみるとと家はなく家族の姿も見えなかった。やむなくタコラサー石のもとで呆然としていると、外本御嶽のツカサ(神司)で、村の御用布係をしている大久ウナリがやってきた。ウナリは津波の難を逃れてきたのである。4月24日は宮良村の御用布を蔵元へ納付する日であったため、前日は真栄里村の知人宅で宿泊し、24日の朝、蔵元へいざ出発という時に「ナンヌンドゥクード!」(津波が来るぞ!)と村人が騒ぎ出したので、ウナリは御用布を背負って地底御嶽(ギゼクオン)へたどり着いた。見るともなく東方の宮良村へ目をやると、赤く濁った水が村をおし流していた。唖然として立ちつくし、大水がひくのを待って宮良をめざして歩き出した。やっとたどり着いた所が宮良牧中のタナ―ムルで、それから下りてタコラサー石まで行った。タコラサー石のもとには宮良村の運天筑登之や高良親雲上が居たので、そこにとどまった。
 日が暮れかけてから松明(たいまつ)をつけていたところ、その灯りをたよりに生存者が寄り集まってきた。運天筑登之とウナリは高良親雲上とともに生存者の救護に当り、また食糧の調達をして協同生活した。そこへ蔵元からの指示があって幾日かして村跡へ下りることになった。運天筑登之と大久ウナリはそれが縁で結ばれ、子どもをもうけた。二人の間に生まれた子の中から、長男は運天家、次男は大久家を継ぐことになり、運天家と大久家が現在もなお脈々と続いているのは、このことがはじまりである。したがってタコラサー石(下の写真)のある場所は、宮良村の生存者たちが寄り集まって蘇生した所でもあるとともに、運天、大久両家の縁結びの地でもある」。
「明和大津波遭難者慰霊之塔」裏側にあるタコラサー石
このタコラサー石の前で、毎年4月24日夜に松明を焚き大津波遭難者の霊を慰め、蘇生した先祖をしのぶ集まりがある
小濱氏は大久家の墓所の前で「この墓の前を東側から西側に高台を回り込むように津波が走って行ったと父親から聞いた」と話す
★タコラサー石より東側にある大久家の墓所、小濱氏が父君から聞いた話では津波は東側(白保嘉崎浜・轟川方面)から西側(宮良方面)に流れて行き、この場所(上原・うえばる)の下まで津波が来たという。そして犠牲者をここへ埋葬したと聞いたそうである。そして、28丈2尺かどうかはわからないがここが津波が一番高く上がった場所と言っていたとのこと。240年前のことゆえ津波の痕跡があるわけではないが目撃者の伝承談として記載しておく。
現在、茶山と呼ばれている山林一帯(石垣市字平得大俣135番地付近)は昔からスリ山とも呼ばれている。地元の人の話では明和大津波のとき、津波が通過した際、山をすり切ったということによって生まれたという話である。津波が通過した所は草木が潮やけして枯れてしまうので、津波が山肌をすり切ったというニュアンスは胸に落ちるものがあり、一直線に駆け上ったというより斜面を横からすり切ったのではないかと考えられる。

★風化する大津波の記憶
 明和の大津波で人口が半数になるほど被害を受けた石垣市、毎年「慰霊の塔」前で慰霊祭が開かれるものの市民の防災意識は低下し大津波の記憶も風化しつつあるように見える。津波警報が出されたときに車で津波見物をしようと橋などが混雑したり、大きな被害を出して高台に村ごと移転した宮良地区の海岸に住宅を建てた若者たちには警鐘を鳴らす長老たちの言葉は届いていない。
明和大津波遭難者慰霊の塔への案内標識が津波防災意識の風化を物語る


★注意深く見ると津波避難ビルの標識がチサンホテル、ハイパーホテルなどの壁面に掲げられていたり、避難場所表示板がいくつかあったりするが、それはごくわずかでしかない。日本最大・最悪の津波に襲われた石垣市に、本土の津波襲来地のような密度での津波注意標識がないのは極めて残念である。

★石垣市星野は人魚の里(人魚伝説が伝わる町)
★人魚伝説
 「八重山に伝わる民話その一」(NPO法人沖縄伝承話資料センター発行)に人魚伝説「人魚と津波」が書かれている。「昔、白保(しらほ)と伊野田(いのた)との間に野原(のばる)という部落があった。ある日の夜、野原(星野)部落の沖から女のきれいな歌声が聞こえてきたという。「いったい何だろう」と何人かの青年で沖へ出て網を入れてみた。二、三回網を投げているうちに、重いものが引っかかったので、「よし、これは大きな魚だ」と喜びながら舟に上げてみた。それは、驚いたことに、上半身は若い女、胴体から下は魚のような不思議な姿のものだった。青年たちは「これが人魚か。みんなに見せよう」と部落へ持って帰ろうとした。
 すると、この人魚がしくしく泣き出して、「どうかわたしを放してください。放してくだされば大きな秘密を話しますから」と頼んだそうだ。青年たちは、「これだけ涙を流しているんだから、放してあげようか」と放すことになった。人魚は「明日の朝、津波が来ます」と言ったそうだ。そのことを聞いて、びっくりした青年たちは急いで部落に帰り、「明日の朝、津波がくるらしいから早く避難しよう」とみんなに知らせた。また、白保まで走り、「明日の朝は津波がくらうらしいぞ」と言ったら、信じる人もいれば、信じない人もいたそうだ。その後、本当に津波がやってきて、野原(星野)部落の人はみんな助かったが、白保の人は、多くの人が波にさらわれたそうだ。それが「明和の大津波」ということです。」と。
 この野原を星野部落と言いかえたものや、白保だけでなく宮良にも知らせたなどの民話があるようだ。星野は白保の隣部落に位置している。白保村は津波前人口1,574人だったが、そのうち死者行方不明者は1,546人で実に98.2%が犠牲になってしまった。ひきかえ隣接する星野ではほとんど被害がなかったことからこうした伝説が生まれ、
津波に警戒すべきという教訓を民話に託そうと地震後に創られたものと思われる。

★トンガの大津波石
 ニュージーランドの北2,000Kmにあるトンガ王国にも巨大な津波石がある。最新の研究によると、トンガにあるサンゴでできた7個の巨石は、過去7000年以内に火山の噴火によって発生した津波によって、斜面を押し上げられて運ばれたものであるという。そのうち最大の巨石(写真)は、海岸から100メートル以上内陸の海抜10メートルを超える地面に鎮座している。
 よく見ると石垣島にある津波石と似ているように思われる。トンガは南西太平洋にあって、トンガ海溝、トンガプレートなどがあり、周辺で大地震、大津波が繰り返し襲来してきた場所で、日本と同じような地勢的リスクのある地域である。

山村武彦の津波防災三か条
1、「グラッときたら、津波警報」
 
地震の揺れを感じたとき、緊急地震速報を見たり聞いたりしたとき、海岸周辺や海岸近くの河川周辺にいたら、津波警報と思って直ちに高台に避難することです。津波や洪水は「早期避難に勝る対策無し」「津波や洪水は逃げるが勝ち」です。小さな揺れだからといって油断せず、ラジオやテレビで情報を確認してください。明治三陸地震津波のときは「震度3」の小さな揺れでしたが、その30分後に大津波が襲ってきて2万人以上が犠牲になりました。地震後、大声で「津波が来るぞー、早く逃げろー」と大声を上げながら駆け足で逃げてください。人は誰かが逃げるとつられて逃げるものです。あなたの声が「津波警報なのです」
2、
「俗説を信じず、最悪を想定して行動せよ」
 津波はいつも同じパターンで同じ場所を襲って来るとは限りません。一度引いてから押し寄せてくる津波もあれば、いきなり高波が襲ってくる場合もあります。また、前回襲われなかった海岸が大津波に襲われたこともありますので、常に最悪を考えて行動すべきです。「波が引いてから津波が来る」とか「ここは過去津波がきたことがない」などの俗説を信じてはいけないのです。防災訓練と思って声を上げながら、駆け足で避難してください。

3、「できるだけ早く高台へ、無理なら近くの高いビル」「車は使わず・遠くより、高く」一度避難したら戻らない。
 
「津波は高台へ逃げるが勝ち」、しかし海岸付近にいて、高台まで避難できそうもないときは、ビルの4階以上に避難させてもらうことです。地域によっては海岸線にあるビルの協力を得て津波避難ビルとしたり、津波シェルターを設置しています。車で避難するのは条件付きで危険です。北海道南西沖地震(1993年)のとき、奥尻島では車で避難しようとした人たちが続出し、狭い道路が渋滞しているときに津波に襲われ、車ごと津波に飲み込まれ多くの犠牲者を出しました。(しかし、高齢者や障害者は短時間に高台に避難するには車しかありません。ですから健常者は極力駆け足で避難して要援護者の車が渋滞しないように心掛けてほしいと思います)。いったん避難
したら、第1波が小さかったからといって自宅へ戻ったりしないことです。津波は繰り返し襲ってきます。警報が解除されるまでは「念のため避難」を続けましょう。