津波の知識と教訓スマトラ沖地震津波津波の注意標識稲むらの火北海道南西沖地震1771年・明和の大津波防災システム研究所山村武彦

トピックス:2010年・チリ地震(画像) 2011年東日本大震災現地調査
  
1960年のチリ地震津波災害(50年目の現地調査・2010年2月):文・写真/山村武彦



1960年(昭和35年)5月24日:チリ地震津波に襲われた大船渡町(現 岩手県大船渡市)

チリ地震津波の概要
 1960年5月23日4時11分(日本時間)、南米・チリ共和国でマグニチュード9.5という世界最大規模の地震が発生します。この地震直前にM7〜7.5の前震と思われる地震が5〜6回続き、その後本震が発生しています。この地震により首都サンティアゴ・デ・チレ(Santiago de Chile)、をはじめ、チリ全土で死者1,743名、負傷者667名の大きな被害となります。震源地はチリ南西沖バルディビア近海で、震源の深さ約33Km。太平洋側のナスカプレートが南米プレートにもぐりこんでいる境界で発生したプレート境界型地震でした。断層の長さは約800Km、断層のずれは約20mといわれる巨大な海底変動により大津波が発生します。地震発生15分後に約18mの津波がチリ沿岸部を襲い、約17時間後にはハワイ諸島を、22.5時間後に日本を襲いました。ハワイ・ヒロ市では約10.7mの津波が押し寄せ、日本でも北海道から沖縄までの広い範囲で2〜6mの津波に襲われ多くの犠牲者を出すことになります。
日本は地震観測情報、ハワイの津波情報を生かせず
 1960年(昭和35年)5月23日午前4時11分(日本時間)に発生したチリ地震は、日本でも松代地震観測所(長野県)をはじめ、全国の地震計で23日午前4時30分ころから約3時間半にわたって異常に大きな地震が記録されています。松代観測所ではこの地震発生の数日前からかなり大規模の地震が観測されており、当日も午前4時15分頃、4時31分頃にも大規模な地震が連続して観測されていました。津波を起こしたのはこの4時31分に観測された本震によるものと見られます。チリで4時11分に発生した本震の初動は、チリから日本まで約20分で到達したことになります。そして、それを追うように地球の裏側からジェット機のスピードで津波は太平洋をわたってきたのです。
 地震直後にハワイ地磁気観測所から日本政府にも地震の情報と同時に津波警報が伝えられましたが、経験不足からか気象庁は津波の強度を過小推定したため、日本の津波警報が発令になったのが津波襲来後となったことが被害を大きくしたものとみられています。後日調べてみますと、江戸時代だけでもチリやペルーで津波が発生するたびにハワイや日本にも襲来し、日本の太平洋沿岸で大津波が発生すると逆にハワイや、米国西海岸、南米に津波が押し寄せていたことが判明します。
日本の津波警報は、津波襲来2時間後
 この地震に伴う津波を後日験潮器の自動記録から読み取ると、翌日の5月24日午前2時30分北海道浦河(引き波)、2時40分釧路(押し波)、2時47分岩手県宮古(押し波)、3時03分福島県小名浜(押し波)などに第一波が到着し、紀州、四国沿岸ではそれよら約30分遅れて到着しています。
 気象庁観測部が発表した津波情報第1報は、すでに北海道や三陸地方を始め太平沿岸を津波が襲ってから2時間50分以上経った5月24日午前5時20分で、「
23日午前4時ごろチリ中部海岸におきた地震により、日本の太平洋沿岸では弱い津波があります。なお、北海道および三陸沿岸では津波の勢いが集まる関係で、相当な津波になる恐れがあります」。第2報は午前7時00分で「南米チリ付近の地震による津波は、目下日本の太平洋沿岸の各地に来襲中でありますが、この津波は、なお数時間つづくものと思われますので警戒して下さい」であった。気象庁より早かったのは札幌管区気象台5時00分(ツナミオソレ、フタ)、仙台管区気象台5時15分(ヨワイツナミ、ヨン)でしたが、それでも津波襲来後でした。それだけで気象庁を責めるのは酷でしょう。当時は今のように津波襲来を早期に察知するGPSや監視システムなどはなく、検潮器データもオンラインになっておらず人が定期的に見に行くという時代だったことも警報が遅れた要因であったからです。
 日本とチリは約17,500キロメートル離れていますが、津波は平均時速約777Kmのスピードで太平洋を渡ってきました。遠地津波のため短周期の津波は消滅し、長周期の波のみが伝播してきます。昭和8年の三陸沖地震津波の周期が約10分程度でしたが、宮城県追波湾月浜の検潮儀の記録によるとチリ地震津波は30分〜40分の長周期が観測されています。 三陸地方では明治三陸地震津波(1896年)、昭和三陸地震津波(1933年)と繰り返し津波が襲う津波常襲地区ですが、チリ地震津波は地震の揺れを感じない遠地からの最大6.3メートルの津波だったため、死者142名など甚大被害を出します。
日本の主な被害
 死者行方不明142名、負傷者855名、建物被害46,000棟、罹災者147,898名、罹災世帯31,120世帯、船舶被害2,428隻、木材流失19,290?、道路損壊45箇所、橋梁流失14箇所、堤防決壊34箇所などのほか、養殖、定置網などさまざま地域で大きな被害を出しました。
主な地域の津波波高
・宮古湾/2.0〜6.3m
・山田湾/2.7〜4.8m
・大船渡湾/1.9〜5.7m
・広田湾/2.0〜6.2m
・志津川湾/2.7〜5.7m
・女川湾/3.8〜5.4m

三陸浜街道・地震津波常襲地域の防災意識
 チリ地震津波災害でもっとも被害が大きかったのは宮城、岩手の両県で、中でも塩釜から宮古までの湾に面した「三陸浜街道」というエリアが被害の中心でした。あれから50年、この地域におけるチリ地震の記憶と防災対策や防災意識について今どうなっているのか、2009年12月8日〜10日まで、塩釜から宮古まで回ってみることにしました。津波を経験した60歳以上の人たちはその恐ろしさを昨日の出来事のように話してくれましたが、50歳未満の人たちの意識は当然ながら希薄でした。また、海岸近くに住む人たちには地震・津波に対する一種の緊張感を感じましたが、山側や少し内陸部に住む人たちの多くは親戚や知人が過去に犠牲になった記憶はあっても、防災対策への関心は薄いように見受けられました。このところの合併、財政危機などの影響もあって、一部の地域を除き防災訓練参加者も減る傾向にあり、全体に防災・危機意識は風化しつつあるように思われました。(2010年2月)。
過去の事例だけにとらわれると「経験の逆機能」に陥る
 チリ地震津波災害(1960年)の標識が各市町村に夥しい数が設置されていました。これはこれで一定の注意喚起効果、意識啓発の効果はあると思いますが、日本近海で地震発生した場合はチリ地震と同じ地域、同じ高さ、同じ強さの津波来るとは限りません。場所によっては2m程度の水位標識があちこちに掲出されている市町村もありますが、これは住民に間違ったメッセージを与えてしまうことになりかねません。津波警報が出ても、せいぜい2m程度しか津波は来ない、それに1960年のチリ地震の時はこの地域はさほど被害を受けなかっただったなどど、過去の災害実績だけにとらわれ甘く考えてしまう危険性があります。そうした過去の事例や経験だけにとらわれ、それが仇になることを「経験の逆機能」といいます。チリ地震津波水位だけでなく、明治三陸地震や昭和三陸地震などのときの水位標識も併せて掲示するべきではないでしょうか。
津波災害に偏る対策だけでは危険
 この地域では地震イコール津波と考えられるほど、過去の大規模災害の多くは津波によるものでした。ですから、行政における防災・危機管理対策が津波対策に力を入れることは間違いではないと思います。しかし、5年前のインドネシア・スマトラ沖地震で津波災害に襲われた地区が、2009年9月30日のスマトラ沖地震では津波はほとんど発生せず、海岸だけでなく内陸部も地震の揺れによる震害によって、多くの建物が損壊し大規模な土砂崩れがが発生しました。現地の被災者は「この地域は津波が々襲った地域だったから、地震対策は海岸周辺の人たちが津波だけの対策をすればよいと思っていたが、とんでもない間違いだった」と証言しています。
 もちろん津波対策も重要ですが、海岸周辺だけでなく内陸部も含め津波だけでなく建物・室内の耐震化、地震に備えた急傾斜地対策なども必要です。そして、なにより重要なのは、住民への意識啓発です。堤防を高くするだけでなく、一人ひとりの心の堤防を高して「防災民度向上」にコストとエネルギーを集約することが大切です。


塩竃市 寒風沢海岸・チリ地震津波被災地の碑【碑文】
 
昭和35年5月24日黎明を破って来襲した津波は寒風沢沖に面する前浜・韮浜・要ノ浜・元屋敷の書く堤防を決壊し怒涛と化して揚陸せり。水田17,919ヘクタールが埋没冠水し、倒壊家屋1戸、浸水家屋二十数戸和船十数隻大破し、電話、電灯の送電架線柱の倒壊、断線により寒風沢を始め浦戸全島は孤立化せり、島民は只呆然自失あるのみ。漁業協同組合の発議により、区長、消防団長と相諮り津波復旧対策本部を結成、塩竃市浦戸東部漁業協同組合内にこれを設置し、被害の調査、確認、飲料水の確保、井戸の衛生消毒、通信連絡等、塩竃市役所津波対策本部との緊密なる連携を保つこと久し。これよりさき決壊堤防の復旧作業にとりかかれり。耕地野々島、吉津浦地区等より消防団員、一般人を含む多数の応援と、陸上自衛隊松島航空基地よりヘリコプターが飛来し被災状況の連絡にあたれり。
 一方塩釜海上保安部内火艇、地元動力漁船により堤防復搬入宮城県仙台土地改良事務所の技術指導に依り元屋敷堤防の応援築堤工事を完了せり。この挙に臨み、本県三浦義男知事は浦戸諸島を海岸保全法の指定ちいきとなせり。
昭和39年7月、桃和田、元屋敷、大迎、平戸、前浜及貝ノ浜囲い、23ヘクタールを土地改良区に定め、塩釜市浦戸東部農業協同組合営により土地改良事業が着工され、昭和40年3月完成せり、ために営農改善への端緒となりぬ。まことに災いを転じて福となすの喩えの如し。ここに寒風沢高潮対策堤防第一次工事の完工を記念し、チリ地震津波来襲16周年を省みて島民の復旧への情熱とこれをうけて国政に結んだ故衆議院議員愛知揆一先生への霊に捧げ人々への警鐘となす。昭和51年5月25日




宮城県気仙沼市港町付近(1960年(昭和35年)5月24日)


宮城県気仙沼市唐桑町・津波体験館
気仙沼市唐桑津波体験館内部
              
津波体験館には津波にまつわるエピソードが掲出されている 


チリ地震津波水位を表示している宮城県JR石巻線女川駅の階段(海岸から約300mの女川駅にも筆者の手の高さまで津波が来たという)
2011年3月11日・東日本大震災の津波で流され、駅舎はもうありません


宮城県南三陸町志津川のチリ地震津波水位表示標識
(2011年3月11日・東日本大震災の津波で流され、今はありません)





宮城県南三陸町志津川松原公園(チリプラザ)・モアイ像
  (2011年3月11日・東日本大震災の津波で流され、この公園も今はありません


1960年(昭和35年)5月24日:松も石堤も流され外洋とつながった古川沼付近・高田松原(現 岩手県陸前高田市)


岩手県陸前高田市高田松原(チリ地震津波約4m)
2011年3月11日・東日本大震災の津波で流され、高田の松原の松7万本も今はありません


1960年(昭和35年)5月24日:折れ曲がった鉄道線路(高田市小友町)


1960年(昭和35年):持ち主不明の漂流物(陸前高田市 市役所裏)

1960年(昭和35年):自衛隊 防疫部隊が活躍(陸前高田市)


 2011年3月11日・東日本大震災の津波で流され、この標識も今はありません


1960年(昭和35年):大船渡町

1960年(昭和35年):水道は断水・井戸は汚染・飲料水は給水車に頼るしかなかった(大船渡町)


1960年(昭和35年):岩手県大船渡港民家に乗り上げた漁船


1960年(昭和35年)5月:陸に押し上げられた真洋丸(3000t)と材木(大船渡市赤崎町)


1960年(昭和35年)5月24日:大船渡町赤沢・地の森付近、手前左側の建物は電報電話局


岩手県宮古市浄土ヶ浜のチリ地震津波記念碑


防潮堤(高さ10m)がチリ地震津波から住民を守り抜いた(現 宮古市田老町)

山村武彦の津波・洪水 防災三か条
1、「グラッときたら、津波警報!津波・洪水逃げるが勝ち!
 
地震の揺れを感じたとき、緊急地震速報を見たり聞いたりしたとき、海岸周辺や海岸近くの河川周辺にいたら、津波警報と思って1秒でも早く、1mでも高い高台に避難することです。誰かに言われて避難するのではなく、防災訓練と思って自分が最初の逃げる人になるつもりで避難を開始してください。
 津波や洪水は「早期避難に勝る対策無し」「津波や洪水は逃げるが勝ち」です。小さな揺れだからといって油断せず、ラジオやテレビで情報を確認してください。明治三陸地震津波のときは「震度3」の小さな揺れでしたが、その30分後に大津波が襲ってきて2万人以上が犠牲になりました。地震後、大声で「津波が来るぞー、早く逃げろー」と大声を上げながら駆け足で逃げてください。人は誰かが逃げるとつられて逃げるものです。あなたの声が「津波警報なのです」
2、
「俗説を信じず、最悪を想定して行動せよ」
 津波はいつも同じパターンで同じ場所を襲って来るとは限りません。一度引いてから押し寄せてくる津波もあれば、いきなり高波が襲ってくる場合もあります。また、前回襲われなかった海岸が大津波に襲われたこともありますので、常に最悪を考えて行動すべきです。「波が引いてから津波が来る」とか「ここは過去津波がきたことがない」などの俗説を信じてはいけないのです。防災訓練と思って声を上げながら、駆け足で避難してください。

3、「健常者は車は使わず・遠くより、高く、一度避難したら戻らない」
 
「津波は高台へ逃げるが勝ち」、しかし海岸付近にいて、高台まで避難できそうもないときは、ビルの4階以上に避難させてもらうことです。地域によっては海岸線にあるビルの協力を得て津波避難ビルとしたり、津波シェルターを設置しています。車で避難するのは条件付きで危険です。北海道南西沖地震(1993年)のとき、奥尻島では車で避難しようとした人たちが続出し、狭い道路が渋滞しているときに津波に襲われ、車ごと津波に飲み込まれ多くの犠牲者を出しました。(しかし、高齢者や障害者は短時間に高台に避難するには車しかありません。ですから健常者は極力駆け足で避難して要援護者の車が渋滞しないように心掛けてほしいと思います)。いったん避難
したら、第1波が小さかったからといって自宅へ戻ったりしないことです。津波は繰り返し襲ってきます。警報が解除されるまでは「念のため避難」を続けましょう。

津波の知識と教訓スマトラ沖地震津波津波の注意標識稲むらの火防災講演台風の知識防災格言防災システム研究所山村武彦