イラン地震救援募金||イラン概要東南海・南海地震阪神大震災防災システム研究所防災講演


イラン南東部地震災害・緊急現地レポート

8割の家が倒壊。震災孤児6000人。古都は悲しみと絶望の中にあった
 2003年12月26日午前5時28分(日本時間午前10時58分)、イラン南東部でマグニチュード6.5の強い地震が発生。この地震でケルマン州バム市にある建物の約8割が崩壊。震源の深さは約4Km(東大地震研究所)〜10Km(米国地質調査所)と、極めて浅い直下型で、真上のバムは烈しい揺れに襲われたと推測される。アドベという伝統的建築、日干し煉瓦造りの家屋などが一瞬にして崩壊し、42,000人の犠牲者の多くは瓦礫の下敷きによる圧死とみられている。電気水道などのライフラインも破壊され、テント暮らしを余儀なくされている約10万人の被災者は、寒さの中悲しみと絶望の中にあった。
 私は防災アドバイザーとして災害調査を過去40年間にわたって100箇所以上実施してきた。今回は、地震発生後3週間経った1月18日から出かけた。この調査に際し、すべてのコーディネートをソフィアに託した。過密スケジュールにもかかわらず、ソフィア川崎社長が全面バックアップして下さり、レザさんの情熱的な協力も得て、主な目的を果たすことができた。今、震災孤児や被災者はどうしているのか?今後我々にできることは何か?などを主眼とした「イラン地震災害緊急レポート」は、義捐金を寄せられた皆様とソフィアに心からの敬意と感謝を込めて捧げます。そして、イランを愛する人たち、イランを知らない人たちにもご覧いただけたら幸甚です。山村武彦

エミレーツでドバイへ
 20:45羽田を出発し、羽田〜関西空港〜ドバイ〜テヘランまでエミレーツ航空で飛んだ。ドバイまではワインサービスがあった。これから一週間は禁酒国で過ごすのだからと言い訳しつつ、ワインを少しいただく。エミレーツはJALとコードシェアしているせいか、客室乗務員は日本人が多く、帽子から優雅な薄いスカーフを垂らしていなければ、JALに乗っている気分である。機内は日本人と欧米人で3割、あとは中東系の人たちが多く見られた。出発日の午前中まで茨城で講演をしていた疲れで、地震資料に眼を通しているうち睡魔が襲う。空席で横になりドバイまで爆睡したが、身体が少し痛い。ドバイで2時間の待ち時間は、荷物が関空からテヘランまでスルーなので身軽だった。


出迎えたのは「ペルシャのおたずね者」?
 テヘラン空港に午前9:35分到着。出迎えのベテラン通訳レザさんがイミグレーションを出たところで待ち受けていた。ソフィアのホームページに出ていた「ペルシャのおたずね者」のイメージより、優しそうな新婚のひげ剃り跡が青々した好漢だった。通関はほとんどパスポートを見ただけでノーチェック。テヘランは晴天で、峰に雪をいただく4000m級の山々に囲まれているせいか、850万人の大都会というより、高原の街といった風情で風が冷たい。このテヘランも活断層地震が懸念されており、今、遷都が取りざたされている。その日は夜の便でケルマンに行く予定。空いた時間でイラン外務省へ行き、日本語の堪能なアジア担当職員からバムの情報を収集する。出発まではレザのお母さんの熱心な勧めもあり、彼の自宅で遠慮なく仮眠させてもらった。
(写真はレザとお母さん)

災害救援募金箱がいたるところに置かれていた
 テヘラン市内には、地下鉄の駅やバス停などに、バム地震被災者救援のためのチャリティボックスが設置されている。その箱に通行人が当たり前のように募金をしていく。ある人は「毎日の食事を節約して、余ったお金を少しでも被災地に贈りたい」と言っていた。地震直後は日本と同じように、衣類や食料を各家庭ごとに送ったそうだ。災害支援だけでなく、ユニセフのイラン版や、歳末助け合いなどのチャリティボックスも数多くあった。、人々のあったか
さ、思いやりが伝わってくる。阪神・淡路大震災のとき私が被災地で出会ったのは、黙々とボランティア活動に汗を流す在日イラン人の姿。それを思い起こし胸が熱くなる。短い滞在で感じたのは、イランの治安の良さ、民主的な雰囲気、そして何より人々の優しさだった。絵葉書の景色を追いかけるのもいいが、優しさを秘めた人々と触れ合う旅こそ、もしかしたら本当の旅なのかもしれないと思う。

ドライバーの親族が今回の地震で多数死亡
 テヘランからアセマン航空でケルマンに到着したのは19日23:00だった。ケルマンは小雨が霧のように降っていたが、さほど寒くはなかった。チャーターした車で深夜の町をホテルに向かう。慎重に運転するのは、26歳独身の寡黙な若者(左写真)、このあと3日間行動を共にすることになる。彼の両親の出身地はバムで、今回の地震で親族十数人が死んだそうだ。そして、家を失った親族が自宅に避難しているとのこと。前を向いたまま訥々と語る彼の表情は暗くて見えない。ただお悔やみの言葉を述べるしかなかった。
ケルマンのホテルは家庭的ではあるが・・・
ホテル・アハヴァーンは「地球の歩き方」には四つ星ホテルとなっていたが、過大評価としか思えない。しかし、それを補って余りあるように、オーナー夫婦とスタッフが異常に明るい声で「オハヨウゴザイマス」「コンバンワ」と出迎えてくれた。少し前に日本のボランティアが宿泊していたそうだ。時差ボケのせいか夜中に何度も眼が覚める。その度にこれから行く被災地の人たちのことを想う。うとうととまどろんでいると、突然鶏の鳴き声がした。カーテンを開けると、まだケルマンの街は暗く静まり返っていた。

吹雪の中、バムを目指す
 20日6:30分「ハヴァ・ナイス・ディ!」オーナーの元気な声に送られホテルを出発、一路バムに向かう。小雨、肌寒い、フロントガラスがすぐに曇り、ドライバーが何度もタオルでふき取る。途中マーハーンで吹雪になった。ジューバールモスクの青いドームがうっすらと白くなっている(左写真)。その後は山岳砂漠地帯の谷間を縫うようにバムを目指す。
地震発生直後の報道を見て、すぐに現地調査に向かうことも考えたが、直後ではかえって現地に迷惑をかけると思ったことと、ビザや自分のスケジュールも考慮してこの日となった。被災者たちは地震後三週間以上経過して少しは落ち着いたのだろうか。この寒さの中で被災者はつらい思いをしているのではないだろうか。はやる気持ちと切なさが交差する。

遺体から麻薬?
 バムが近づくにつれ大型トラックや燃料タンクを載せたトレーラーが増えてくる。救援物資輸送車のようだ。バム郊外で警察の検問があった。バム方面へ出入りする車両に対して厳しいチェックをしているとのこと。ドライバーの話では、この道路はパキスタンやアフガニスタンからトルコやイラクなどへ向かう車も通るため以前からも検問があったが、地震の後さらに厳しくなったという。理由を聞くと「地震後、多数の遺体が埋葬のためバムからケルマンに運ばれたが、ある不心得者が遺体の中に麻薬を隠して運ぼうとしたのが見つかってから」という。どこにでも悪党はいるものだ。

バム市内は土褐色の泥と埃が立ち込めていた
 バムまであと5Kmという地点でもあちこちで崩れた家が目立ち、地震の爪跡が散在する。道端に赤新月社のマークをつけたテントが張られていた。政府の人たちが一軒一軒詳細な被災情報を聞き取りチェックしていた。正確な被災者数などはこれからなのかもしれない。これはインド地震でもそうだった。インドでは火葬だが、一家全滅や周囲の人が死んで、伝染病を恐れすぐに火葬したため、正確な死者の数が出たのは3ヵ月も経ってからだった。先を急ぐ。時間は既に9時を回っていた。車の先に広がるバム市の空は黄色いもやが立ち込めているように見えた。近づくにつれ、それはもやではなく土埃だと気づいた。小雨に打たれてなお遠くがかすんで見えるほど、バムは泥と埃にまみれていた。
 市内に入って行くと、道路の両側は見渡す限り崩壊して、高い建物がまったく見えない。地元の人に聞くと、人口98,000人のバムの約8割が全壊したという。町の中心付近で車を降りて歩いて取材を始める。夜来の雨で、車が通るたび泥水が飛び散る。行きかう車はフロントガラスまで泥だらけである。被災者はテント村に行っているらしく、崩れた家の周囲には人影が少ない。
日干し煉瓦づくり(アドベ)だけでなく、鉄筋コンクリートのマンション(左上)や銀行(右上)が崩壊している。鉄筋の質や量に多少の問題もあるが、同じような揺れに襲われたら、日本でも多くの建物が崩壊すると思われる。
大惨事になったのは、あまりにも浅い震源のためか?
 左上の男性(63歳)が指差しているところで彼の娘さんの遺体が発見されたという。彼自身も生き埋めになったが「息子(右上)に助けてもらった。腕を骨折していたが、その時は夢中で気づかなかった。私の身代わりに娘が召された」と涙を流した。多くの聞き取り調査で共通していたのは、直下の浅い地震だったせいか、揺れ方は「縦揺れ横揺れなどと生易しいものではなく、家と自分たちはフライパンの上の豆だった」と想像を絶する揺れであったことを証言した。阪神・淡路大震災はM7.3で、震源の深さは約14Kmだが、バム地震はM6.5で地震の規模は阪神大震災よりはるかに小さい。しかし、震源の深さは約4Kmと極めて浅かった。それが局地的な大惨事の最大原因のひとつと思われる。地震後、建物の脆弱さだけがクローズアップされているが、私はそれだけではなく、震源が浅かったゆえに起きた災害で、同じ揺れなら日本でも大惨事に発展する可能性のある地震だと思う。
やはり、地下室は強かった
 上部中央の建物は、一階がお店で二階と三階に家族のが住んでいたが、家族に死者は無く奇跡的にかすり傷で済んだそうだ。この建物の地下室は倉庫になっていたがほとんど無傷だった(右上)。こうした地下室が残った家が多くあった。私は多くの現地調査で、地下建造物の被害は、地上建造物被害に比較して極端に少ないことを経験則として知っている。それがバムでも立証された形だ。今後の耐震住宅のあり方に一定の示唆を与えるものと思われる。
アルゲ・バムの崩壊
 紀元前からの古い歴史を持つアルゲ・バム(城塞都市)はもろくも崩壊した。壁の一部から古い遺骨が露出している(右上)、また、遺跡の一部から金貨が出てきたなどの噂が広がり、警察と軍隊が厳重な警備を始めた。イラン政府はアルゲ・バムの復元を言明し、国連文化遺産保護委員会も支援に乗り出し、日本政府も支援を検討している。現地関係者も今は被災者対策優先だろうが、一日も早い世界遺産の復旧を期待する。
慶びごとは招かれてから行け、悲しみごとは招かれずとも行け
 被災者たちは冷え込む夕方からテントの外で火を炊く。厳しい避難生活でも子供たちの表情が明るいのが唯一の救い。まもなく仮設の学校が始まる。被災者への水や食料は政府やボランティアなどによって不足していないが、不自由なテント生活はまだ続く。この後、家を失った人々は応急仮設住宅に住むことになるが、砂嵐、40度の夏に耐えられるか心配である。一日も早く本格的な住宅復興が望まれているが、まだ見通しは立っていない。日本は防災大国として、こういう時にこそ、率先して迅速に復興支援、防災技術支援を行うことが真の人道支援ではないかと思う。日本政府もマスコミも隣国イラクの人道支援に眼を奪われていて、日本への石油輸出国であり親日的なイランへは形だけ手を差し伸べただけである。三十八もの各国政府が復興支援に本腰を入れる中、日本の国際緊急援助隊は約1週間で引き上げ、日本人は現在、民間のボランティア団体と、赤十字関係者が支援活動を続けているだけである。

震災孤児はまだ1000人も残っている
 6000人の震災孤児のうち5000人は親戚や里親に引き取られ、残りの約1000人がケルマンとバムに収容されている。今回現地調査に行く事を知った方々から寄せられたお気持ちと義捐金2000USドルは、私が直接震災孤児福祉施設へ寄贈してきた(下記写真男性が院長)ご協力をいただいた皆様に、この場をお借りしてご報告を申し上げ、心より感謝します。
わずかな額でしたが、心のこもった日本からの募金は、院長さんをはじめスタッフの方々から大変感謝された。防災システム研究所は今後も継続して震災孤児支援を続け、次回イランへ行くときに届けたいと思っている。今後も募金運動へのご支援をお願いします。

トルコ政府をはじめ、多くの国々が仮設住宅や住宅復興に努力しているが、日本の旗は見えないのが残念である。
がんばれ!バム
 今回のバム地震災害現地調査で、被災者やボランティアの方々を始め多くの人たちからたくさんの話を伺った。中でも直接災害復興にあたっている行政関係者(右上)との意見交換は大変有意義なものだった。彼らは睡眠時間も削って復旧、復興に奔走していた。
 特にバムの副市長さん(上部中央左)たちは、私が40年間にわたり防災対策の提案をしていることを知り、長時間にわたって私に質問された。帰りがけに日本の皆様にと感謝のメッセージを託され、私にぜひイランへきて、行政、企業、地域のリーダーを対象とした防災講演をしてほしいと依頼され、私はもちろん快諾した。
 私の話で特に彼らが注目したのは、「基本は自律(立)復興。当面は応急住宅建設、ライフラインの復興が優先ですが、安全な街づくりは、地震に強い家を建てることだけでなく、地震でも揺るがない人づくりが大切です。自分や家族を守るのは自分、自分たちの企業や町を守るのは自分たちです。防災対策にはセルフディフェンスという基本スタンスが大切。ハードに魂を入れ、真に安全・安心な歴史都市バムを蘇らせることが、多数の犠牲者の死に報いることと思う、そして、バムの人々にはその責任と使命がある」と話したとき、彼らは身を乗り出して興味を示した。私の持論でもあるが、行政は万能ではなく、行政でしかできないことを行政がやり、民間や地域でできることはそれぞれが協力し合って防災対策を推進するシステムの構築が大切だと思っている。
 ケルマン州の要請に応え、6月に再度イランに赴き、防災先進国日本の防災対策のあり方などを微力ながら伝えてきたいと思っている。労力やお金だけの人道支援ではなく、ノウハウを伝えることも新しい形の人道支援だと考えている。
末筆ながら、最後までこのレポートをお読みくださった方々に感謝しつつ、バムの人々へエールを送りたい。
「がんばれ!バム、負けるな孤児たち、あなたたちは決して一人ではない。微力ながら我々も一緒に闘うから」


写真と文/山村武彦
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