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撮影・山村(許可なく写真等の複製、転写はご遠慮ください)

    
濱口梧陵は、嘉永五年(1852年)私財を投じ剣道と漢学を教える稽古場(私塾)「耐久舎」(現在の耐久高等学校)を創設する。
建物は間口五間奥行き四間。安政の南海地震に襲われるニ年前のことで
梧陵三十二歳のときであった。(現在広川町耐久中学校の敷地内に保存されている)


耐久舎は時代の変遷で現在の和歌山県立耐久高等学校となり、校庭に梧陵翁の銅像が建っている

 「稲むらの火」の物語で、主人公五兵衛のモデルとなった浜口梧陵(儀兵衛)は、1820年、房州(現在の千葉県銚子市)で醤油醸造業を営む豪商浜口家の分家の長男として紀州廣村(現在の和歌山県広川町)に生まれる。少年時代に本家の養子になり三十四歳ごろに七代目儀兵衛を相続する。(後年梧陵を名乗る)
 濱口家(ヤマサ醤油)は江戸にも店があり千葉と和歌山を行き来するかたわら、佐久間象山に学ぶほか、勝海舟、福沢諭吉とも親交を深めていた。相続する前年の嘉永五年(1852年)、外国と対抗するには教育が大切と、広村に「耐久舎」という文武両道の稽古場を開いた。現在の耐久中学、耐久高等学校の前身である。

耐久中学校舎の左側に見える小さな瓦屋根が耐久舎
耐久中学校の校庭に建つ梧陵翁銅像

和歌山県有田郡広川町役場前にある「稲むらの火広場」の銅像


 「稲むらの火」の物語の原型となった実話は、安政元年の安政東海地震、安政南海地震のときのことである。両地震が起こったのは実は嘉永七年十一月四日と五日、新暦で言うと1854年12月23日と24日のことである。しかし、巨大地震が連続して発生し大きな被害を出したため、年号を安政と改めることとなった。そこで、両地震とも安政の地震と呼ばれることになる。それほど大きな地震であった。(以下新暦で記す)
 最初に地震が起きたのは1854年12月23日の午前10時ごろ、地震の規模はマグニチュード8.4と推定される後に安政の東海地震と呼ばれる巨大地震で、伊勢から伊豆半島まで大きな被害を出した。房総半島から四国土佐にいたる太平洋沿岸各所に大津波が押し寄せ、家屋の被害は約9,000棟、死者は600人といわれている。
 その32時間後、1854年12月24日の午後4時頃再び巨大地震が発生する。(このあたりのことは津波心得の碑にも書いてある)
 この周辺では過去1605年の慶長地震、1707年の宝永地震など幾度となく連続または同時に東海地震、東南海・南海地震が発生している。二度目の地震は安政の南海地震と呼ばれる、マグニチュードも同じ8.4の巨大地震で、32時間前の東海地震より西側の紀伊半島から四国沖が震源域であった。津波は房総半島から九州にまで押し寄せて、全半壊建物は約60,000棟、流失家屋21,000棟、死者3,000人というすさまじい被害を出した。
 その時、「稲むらの火」の舞台となった紀州藩廣村の状況をみてみる。最初の地震が襲った12月23日の10時ごろ、強い揺れで村は騒然となる。たまたま廣村に滞在していた儀兵衛はただちに海岸に出て異常な波の流れを見る。波がうねり津波の襲来を感じた儀兵衛は、村人に言って家財を高所へ運ばせる。そして、老人、幼児、病人を広八幡神社境内に避難させる。その後儀兵衛は「強壮気丈」の若者たちを引き連れて海面の監視にあたるが、波の高さは夜になって平常に戻る。しかし、警戒を緩めず村人の大半は避難場所で一夜を明かし、避難者には粥の炊き出しを行った。みんなが避難して空き家になった家々の盗難や火災に備えて、儀兵衛は屈強な者30人余りとともに一晩中村内の巡視と海の監視に当たった。
 翌日1854年12月24日、ようやく海面が平常に戻ったので、高所で一夜を明かした村人たちは各自家に戻った。ほっとしたのもつかの間、その日の午後4時ころ、再び大きな地震が襲った。儀兵衛が「激烈なること前日の比にあらず」と記すほどの烈しい揺れに見舞われたのである。瓦が落ち、家の柱がねじれ、壁や塀が崩れ、土煙が空を覆う。揺れが収まると、儀兵衛は被災した村内を見回った。
 ところがその途中で当初異変が無かった海面が急激に変化し始め、またたく間に海面が山のように盛り上がり、広村の人家に押し寄せた。高さ5mの津波は湾の奥でさらに高さを増し、18世紀初頭に畠山氏が築いた波除石垣を乗り越えて凄まじい勢いで高波が襲った。あわててふためき避難する村人たちの混乱の中で、儀兵衛は壮者たちを督励して逃げ遅れたものを助け、自分も走って避難しようとしているうち、ついに津波に巻き込まれてしまう。儀兵衛は浮き沈みしながらかろうじて丘のひとつにたどり着いて難を逃れる。高波は廣村の両側を流れる江上川、広川をさかのぼり、大木や大石を巻き込んで村をまたたく間に破壊しつくした。広村の惨状は目を覆うほどであった。儀兵衛がようやく高台の広八幡神社境内に着いたころも、村人たちは行方のわからぬ家族を心配して大混乱に陥っていた。すでに夜になっていたが、儀兵衛は逃げ遅れたものを助けるために元気な人たち10人ほどに松明を持たせて村に戻る。若干の村人を助けたものの、倒壊家屋の残骸や流木が道をふさぎ歩行の自由もままならぬ状況だった上、津波が何度も押し寄せてきた。このままでは危険と判断して儀兵衛は撤退を決意した。その途中漂流者や逃げ遅れたものが逃げる方向を見失わないようにと、稲むらに次々と火を放ちながら高台に戻った。
「この計、空しからず。これに頼りて万死に一生を得たもの少なからず」儀兵衛は述べている。儀兵衛たちが避難した後、前後4回あった大津波の中でも最大の津波が轟然と村を襲った。荒れ狂う激浪は点火した稲むらの火まで消してしまった。


 上の写真は南海地震での江上川付近の津波被害・100トンほどの機帆船が川岸に打ち上げられ、橋が流失
(西太平洋地震・津波防災シンポジウム事務局発行「稲むらの火」と史跡広村堤防より)

 「稲むらの火」にでてくる五兵衛(儀兵衛)の活躍と、紀州広村を襲った津波の状況は概ねこのようなものだった。物語のように津波に気づかぬ村人を集めるために稲むらに火をつけたのではなく、津波に追われる村人や漂流する人に逃げ道を教える目印にしたのである。
 そのときの村の被害は甚大で、建物被害339棟、死者30人といわれている。それでも儀兵衛などの活躍で他の村よりも廣村の被害は少なかったという。津波が収まった後の惨状の中で、儀兵衛は村人の救援活動に奔走する。まず、応急対策として、隣村の寺から米を借り受け握り飯を被災者に配った。自分の家の米もすべて放出し、さらに不足すると見ると、深夜、隣村の庄屋を訪ね「一切の責任は自分が負うから」という条件で米50石を借り出すなど休むまもなく食糧確保に努めた。それからも、流失した家財、米俵の収集、道路や橋の修復工事などを指揮するとともに近隣の資産家に呼びかけて寄付を募るなど、献身的な活動を続けた。また、私財を投じて家屋を建て極貧者に無料で住まわせたりもした。

 中でも儀兵衛が心を砕いたのは,今後も将来にわたって繰り返し押し寄せてくるであろう津波対策と、災害で職を失った人たちの失業対策だった。そこで、紀州藩と交渉し許可を得て津波よけの大堤防建設に着手する。工事によって村人に職を与え離村者をなくすことができると考えたのである。そして、怠惰に陥らないように労賃を日払いするなどの工夫までした。また、田畑を堤防の敷地にすることで藩の課税対象から外す交渉もした。つまり、防災対策、失業対策などを同時に推進したのである。
 特に、廣町堤防建設費、銀94貫のほとんどを自分の私財で賄ったのである。3年10ヶ月の歳月を費やし、延べ56,736人の人員をかけて見事に廣村堤防は完成した。高さ5m幅20m長さ600mの立派な堤防である。海側に防風林をかねて潮風に強い松の木を、反対側にはぜの木を植えた。150年経て見事な松林に育っている。この堤防のお陰でその後の津波でも広村は被害を免れている。特に戦後まもない1946年(昭和21年)に発生した昭和南海地震津波で、見事にその役割を果たし、多くの広町の住民を守りぬいたのである。堤防そばにある感恩碑の前で、毎年11月に儀兵衛の偉業を称え、防災の誓いを新たにする「津浪祭」は、既に100回を超えた。

安政の南海地震(1854年)後梧陵が私財をなげうって創った広町堤防

  幕末、儀兵衛は梧陵と名乗り、激動期に開国論に立ち、見込まれて紀州藩の勘定方や権大参事に任じられている。後には新政府の駅逓頭(現在の郵政大臣)へと稀代の出世をする。晩年は再び郷土に戻り、和歌山県初代県会議長などを務めた。小泉八雲の「A Live God」NIにあるように、広村の村人たちが梧陵の積年にわたる恩に報いるため「浜口大明神」なる神社を建てようとする動きがあった。しかし、梧陵は頑としてそれを許さなかった。
実話は小泉八雲の書いた生きる神、中井常蔵が書いた五兵衛とは多少異なるが、それらは全く問題とならないし、実話の儀兵衛のほうがはるかに高潔な魂と、際立った人間愛、英明な頭脳を持つたリーダーであり、稀に見る義の人であったと思われる。梧陵は65歳で世界一周の旅行中、ニューヨークで客死する。享年66歳だった。
 150年経た今日、東南海・南海地震の発生が懸念される中、濱口梧陵翁の偉業を称えつつ、もう一度地震列島日本の危機管理、防災対策のあり方に思いを新たにすべきと感じた。山村武彦

         
           稲穂のそばに立つ梧陵翁墓地の標識 梧陵翁の墓