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宝永地震 |
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東海・東南海・南海地震が同時発生 宝永地震は、宝永4年10月4日(1707年10月28日)、中部、近畿、四国、九州の広い地域にまたがり、東海地震・東南海・南海地震が同時に発生した南海トラフ巨大地震で、地震の規模はマグニチュード8.6と日本最大級の地震と推定されている。 地震による建物の倒壊と津波による被害は甚大なものがあった。宝永地震による倒壊家屋は、東海、近畿、中部、南部、四国、信濃、甲斐の国々で多く、北陸、山陽、山陰、九州にも及んだという。特に近畿地方内陸部の揺れは激しく、記録によれば倒壊家屋1800余戸、死者500余人となっているが、当時の人口からすると甚大な被害といえる。 津波で大きな被害 地震による津波は房総から九州にまで至る太平洋沿岸を襲った。津波は瀬戸内海や八丈島にも襲来した。津波被害が最も多かったのは高知沿岸、紀伊半島から伊豆半島西岸だった.。伊豆下田では5〜7mの津波が襲来し、912戸のうち857戸が流失し11人が溺死という記録が残っている。紀伊半島東岸では推定波高5〜10mの大津波が襲来、尾鷲では流失家屋610戸、津波で流され死亡した人は530人余(一説には1000人を超えたという)。紀伊半島西岸では推定波高4〜6mの大津波で大きな被害を出した。徳島沿岸では5〜7mの津波、高知沿岸倒壊家屋5000余戸、5〜8mの津波で流失家屋は12000余戸、死者行方不明者2800人余の大惨事となった。高知の西隣では約20キロ平方メートルにわたり最大2mの地盤沈下がみられた。この地震で四国道後温泉では145日間にわたり温泉の湧出が止まるという現象が起きた。 死者は20000人を超える? 宝永地震の被害は震害、津波によって倒壊(流失)家屋29000余戸、死者4900人余と推定されているが一説には20000人を超えたともいわれている。 地震後49日目に富士山が噴火(宝永の噴火) 宝永地震から49日後の宝永4年(1707年12月16日)、富士山で大噴火が起こった。武江年表によると、「富士山の根方須走り口焼ける(噴火)、天暗く雷声地震夥しく、関東白灰降りて雪の如く地を埋む、西南頻りに雷光あり、白昼暗夜の如く成り、行燈排灯をともす。(中略)この時出来たる山を宝永山といふ」と記録されている。この噴火による溶岩の流失はなかったが、約100Km離れた江戸にも大量の火山灰を降らせた。この噴火による噴出物量は、約8億立方メートルと推定されている。このときの噴火口は東南斜面に第一、第二、第三宝永火口が並んでいる。その時できた山は宝永山とも呼ばれている。 今後想定される超巨大地震「南海トラフ巨大地震」/南海トラフ巨大地震に備えるを参照 |
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